●同時、あるいは同時性という概念は自明ではない。出来事Aと出来事Bが「同時に起きた」と前提なく言えるための基準となる普遍的な時計は存在しない。ある場所に時計Aがあり、別の場所に時計Bがあるとして、二つの時計は、同期させない限りそれぞれ個別の時間を刻む。
「同時性」は人為的に作り出されなければならない。GPS衛星に内蔵されている時計は、地上の時計に比べて毎秒100億分の4.45秒遅く進むように補正されている。この補正がなければ、GPSを用いた地図上の位置と実際の位置との間に、1日につき10キロ以上のズレが生まれてしまうという。地球上の時計とGPS衛星の時計との「同時性」は、特殊相対性理論一般相対性理論を用いて翻訳されることを通じてはじめて成立する。
(自明なものとしての「同時性(絶対的時間)」は、相対性理論の誕生とともに消滅した。)
同時性は、出来事と出来事とが何かしら媒介を通じて翻訳されることによってはじめて成立する。しかし、同時性はなにも、物理学的な翻訳(相対性理論)によってだけ成立するのではない。ただ、相対性理論は、それ以前にわれわれが自明だと思っていた(相対性理論以外の)さまざまな「同時性」が、なにかしらのフィクションを媒介とすることで成立していたのだということをはっきりさせた。それは、「出来事Aと出来事Bとが同時に起きた」というときの、その「同時」という出来事がフィクションであったことが明らかにされたということだろう。
(「同時多発テロ」と言ったとして、なにをもって「同時」とするのかは自明ではない。あるフィクション---つまり、あるメディア的状況、それを可能にする技術的配置、そこで生まれる言説などの複合的な構成---によってはじめて、それが「同時」であるという効果が生まれる。)
ここで、フィクションとしての同時性を成立させる「媒介としてのフィクション」は物語としてのフィクションを生む「枠」としてのフィクションだといえる。たとえば、西暦とはひとつの枠としてのフィクションだし、平成というのもまた、ひとつの枠としてのフィクションといえるだろう。だから、西暦という枠によってとらえられる同時性(出来事、物語)と、平成という枠によってとらえられる同時性(出来事、物語)とは、別の同時性(出来事、物語)ということになる。一方から他方への翻訳は可能だが、しかし、ふたつの異なる同時性同士の「同時性」を成立させるためには、そのどちらでもない、もうひとつ別の、第三の枠としてのフィクションを用意する(作り出す)ことが必要となる。
出来事Aと出来事Bとが同時であるということは、自然に同時であるということではなく、それを成立させる「枠」というフィクションがつくられる(あるいは生まれる)ことによって、二つの出来事が「同時性」を帯びる。何と何が同時で、何が同時でないかということは、それらの出来事を包摂するフィクションとしての「枠」に依存する。だから、何か「同時性」を感じた時には、まず、何がそれを成立させているかという「枠」の方を意識し、「枠」こそを吟味する必要かがある。
あるいは、新たな「枠」を生み出すことで、別の同時性が生じ、それまで同時でなかったものたちが同時性をもち、同時だったものが異なる時間に配置され直すかもしれない。
(もちろん、あわゆる枠、あらゆる同時性が同等ということではない。ある枠は、人を強く拘束し、別の枠は緩くしか拘束しないかもしれない。ある枠は多くの人に作用し、別の枠は少しの人にしか作用しないかもしれない。)