「やらない」こと

●人は、積極的に何かをしたことに対しての評価を下すことは出来ても、あえてそれを「しない」ことに対する評価を下す事はむつかしい。何かをすれば、それが良い事であろうと悪いことであろうと、その行為と結果との関係がわかりやすい。それになにより、「何かをした」という満足感を得やすい。彼は良きにつけ悪しきにつけ、ともかくもこれだけのことをなし得たのだから、それは大したことだ、というような評価も得られるだろう。しかしそれはあくまで物事の半面であって、あえてそれを「しない」ことの重要性が忘れられてしまうのはまずいのではないだろうか。何もしないで後悔するより、何かをして後悔した方が良い、というような(ポジティフな)言い方には、何かとても暴力的な匂いがする。
最も分かりやすい卑近な例が政治家で、政治家は「何かをする」ことが業績となる。それが無謀で乱暴でデタラメなことだったとしても、「私は私の信念に基づいてそれをする」とか言って実行すると、多少強引なところはあっても、やる気と行動力のある人物で、反対ばかりして何もしない奴よりもずっと好ましい、という「イメージ」が生まれる。本人にも、俺はこれだけのことをなしえたのだ、という自負が生まれる。だが当然のことながら、それを「やった」時と「やらなかった」時とで、どちらがより利益が大きいか(あるいは害が少ないか)を、出来るだけ冷静に比較して、やらない方がマシな時は「やらない」という判断を下すことが出来る人こそが優秀なのだ。しかし、この「やらない」という方の判断の是非や重要性は表面上は見えにくい。だから政治家は、有権者にアピールするために、ともかくも何かをしてみせなければならなくなる。
良い事ににしろ悪い事にしろ、とにかく何かを「やった」ということは目に見えても、「やらない」ということの意味は見えてこない。しかし、「やらない」ということは、少なくとも「やった」ということと同等の重さを持ち、意味をもつはずだ。「やらない」ということのもつ重要性が見えにくいのは、おそらく人間のもつ表象のシステムの根本的な欠陥だろう。(「やらない」ことは、人に満足感や充実感を与えにくい、ということも、大きな問題だろう。)