●『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)。観逃してしまっていたけど、これは観とかなきゃいけないんじゃないかと思って無理してDVDを買って観た。
思いの外オーソドックスな切り返しの映画で、典型的なシネフィルの映画だと思った。すごく映画の好きな人が、古典から現在まで映画の幅広い成果を踏まえたうえで(映画だけでなく、文学的な素養とかもかなりありそう)、とても繊細に丁寧につくり上げている映画という感じ。だから「驚くべき」というものではないにしろ、とてもいい感じではあるのだが、何と言ったらよいのか、「解像度はすごく高いけどバランスが常識的」という感じがちょっとしてしまう。あー、ヨーロッパの教養人がつくったんだろーなー的な。あと、主人公の男の顔がぼくにはちょっと…。いや、でもかなり面白いことは確か。
見る人としての主人公がいて、その主人公に見られる対象として女たちがいて、そして、主人公と女たちの間に存在する場所としての街があるという関係が、まず安定的にある感じ。
カフェのシーンなどは、一見複雑なモンタージュが行われているようで、実は、カフェの(屋外部分の)一番奥に位置している「見る」主人公と、主人公によって「見られている」カフェの広がり(カフェの女たち)という切り返しが基本になっている(正確には切り返しとは言わないかもしれないけど、あらゆるカットが、「それを見ている主人公」へと返されて秩序付けられる)。主人公が描くドローイングがそれを補強する。
そして、(トリの糞のせいなのか、髪をアップにしたブロンドの女性の顔を確かめるためなのか)主人公が真逆の位置(方向)の席へと移動することで、前に自分が座って居た席の後ろにあるガラス戸の先(屋内)にシルビア(らしい女性)を発見する。つまり、見る人である主人公が自分で「切り返し」のような位置の移動をすることで女性が発見される。
そしてその後、その女性を追いかける主人公と逃げる(?)女性との間で追いかけっこがはじまる。主人公が女性との距離を詰めようとして近づいてゆくいくつかのカットだけが、二人を同一フレームで捉えるけど、それ以外は基本として、律儀に、追う主人公を前から捉え、逃げる女性を後ろから捉えるというモンタージュがつづく。ここで、追う/追われるという軸と、その間に入り込んでくる街の空間や喧噪(これ自体はとても繊細につくられてはいるけど)とのバランスが、思いのほか保守的というか、常識的な感じ。主人公は女しか見ていないから、主人公に見られているもの=女と、そこから零れ落ちるもの=街や喧噪という関係が、映画のあらわれのなかで静態的であまり動かない感じ。主人公/女/街(喧噪)という関係が一定で、例えば、主人公に対して、女を乗り越えて街がぐっとせり出してくる、というような瞬間があまりない(まあ、最後に女=街になるとも言えるけど)。見る/見られという軸それ自身が主題になっている作品としては『リミッツ・オブ・コントロール』の方が過激ではないだろうかとも感じた。あるいは、むしろ「世界ふれあい街歩き」の方が過激なのではないか、とか。
そして路面電車によってようやく二人は同一フレームに横並びになる。女性は自ら主人公を見ることを拒否するようにサングラスをしている。主人公が女性に声をかけることで、切り返しのモンタージュは、一方的な見る(追う)/見られる(追われる)という関係から、互いに見合う(見る/見る)関係へと移行するが、女性は結局シルビアではなく、去る(電車から降りる、遠ざかる)/見送る(留まる)というモンタージュで終わりを告げる。ここで、まるでスクリーンプロセスのように背景が移動する路面電車のロケーションはすばらしい。
これはぼくが、事前に勝手に、もっと空間(というか場所=街)を全面に出した(尊重する)ような映画を期待してしまっていて、それが実は切り返しの映画だったのでちょっと失望してしまったという色眼鏡がかかっている観方かもしれないのだけど、ガラスの透過性と反射性のあわいとか、光のゆらゆらとか、風でページがペラペラめくれるとか、そういうところに、監督のドヤ顔が透けて見える気がちょっとしてしまった。でもまあ、これは好みの問題かもしれない。
オーソドックスな切り返しの映画という感触は、バーの場面で、マネを引用したような歪んだ鏡のある空間を媒介にして崩れてゆく(こういうところにマネを使うところがいかにもって感じで…、まあ別にいいんだけど)。昼間のカフェが、大勢の女たちのなかから(主人公によって)一人の女が選ばれる場だったのに対し、バーは逆に、一人の女が失われた後に(追っていた女はシルビアではなかった)、今度はすべての女がシルビアに(シルビアの影に)なって、つまり一人の女から無数の女へと分岐し増殖してゆく発端の場となっている。それによって、一対一である(一対一への期待である)切り返しは崩壊するしかなくなる。バーで唯一主人公と切り返しによって見つめ合う(そしてベッドを共にする)人物は冥界から来たかのようでシルビアの面影とは何の関係も見出せない。主人公が彼女を選んだ(見た)というより、彼女によって主人公が見られたのだ。そして翌朝のカフェでも、主人公は見るというよりも見られる存在となっていた。主人公はもう、誰か一人(シルビア)を見つめ(探し)、その一人から見返してもらうことを期待しなくなり、駅でひたすら無数の女たちを眺めつづけるだけとなる。すべての女性がシルビアであり、街中がシルビアだらけになる。そうなると、主人公は特権的な「見る」人物であるというより(主人公の「見る」が特別だったのは、その見るが「探す」や「追う」だったからだ)、「見る」は能動から受動に近くなり、主人公は女たちを見つつ、自分を見返してくる女をただ待っているかのようになる。そして主人公は他の多くの顔たちや人物たちと同等に近い存在(イメージ)にまで後退し、街に埋没してゆく。カットとカットの関係の統御は緩くなってくる。ここらへんの、主人公のかなり病的に青白い顔はけっこう気色悪い。ラストのカットを見ると、主人公の存在そのものが消えてしまったかのようにさえ感じられる。
オーソドックスな切り返しの映画だと書いたけど、実はそれを裏切るような動きもあって、それは、いろいろな場面でフレームを横切って行く様々な点景的な人物たちが、裏で密かな関係のネットワークを形作っている点だ。見る/見られるという強い結びつきとは別の、星座的なネットワークが同時にまた別の空間をつくりだす動きをみせてもいる。その「動き」は人物だけでなく、様々なカットでフレームの隅を通過する路面電車や自転車、自動車や、瓶やカート、その音、あるいは色彩などによっても担われている(一見、こっちが前面に出ているようでいて、実は、見る/見られるによって統御されている、と言うべきか)。
この映画で、保留なくすばらしいと思うカットが二つあった。一つは、追って行った女がシルヴィアではないいと分かって呆然としながら水遊びをする女たちを見るシーンと、夜のバーのシーンの間に挟まれている、日が暮れてゆく線路のある風景を映したカット。この映画において街は、多くの場合、主人公と女(女たち)を隔てる、その間の空間として出現するのだが、このカットは、主人公と女たちとの関係とは無関係に「この場所(街)」はあるのだ、ということを的確に示しているように思われる。この星(地球)ではこうやって日が暮れてゆくのだ、という感じ。このカットが、ラストにカットにつながってゆく。
もう一つは、最後の方で、ブロンドの女性の髪が風で乱れているところを延々(おそらく速度を変化させたりしつつ)示しているカット。「やりすぎだろ」と笑って突っ込みたくなるようなバカっぽい開放性があって、そこがすごく好き(実はゴダールにはふんだんにあるそういう感触の開放性が、一見開放的であるこの映画に最も足りないものなのではないかという気がする)。