2022/03/20

●『世紀の光』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)をブルーレイで観た。アピチャッポンは『ブンミおじさんの森』がちょっと苦手だったので、今まであまり積極的に観ようという気持ちになれなかったのだが、(まったく今更という感じだが)これはとてもすばらしいし、とても驚いた。このブルーレイディスク(『世紀の光』と『光りの墓』の二本が収録されている)は、柄沢祐輔さんが激推ししていたので買ったのだが、買ったところで満足してしまって今まで観る機会がなかった。買ったのはおそらく2017年なので、五年もの間、死蔵されていたことになる。なんでもっとはやく観なかったのか。

実際に、切り返しを用いたモンタージュはあまり使われていないが、様々な意味での「切り返し」の映画だと思う。二つのカットが直接的に切り返しとしてモンタージュされるのではなく、時間的に遠い位置にあるカットとカット、あるいは、人と人、場面と場面とが、切り返し的な関係で結ばれる。最も分かりやすいのが前半と後半の反復だが、それだけではない。

映画のはじめの方に、女性の医師が袈裟を着た僧侶を診察する場面がある。僧侶はまず、膝が痛いのは子供の頃にニワトリをいじめたことが原因だと言い、夢にニワトリが出てきて、うなされてベッドから落ちたのだ、ニワトリの呪いだというようなことを言う。それに対して医師は、ニワトリをよく食べるのかと問う。ここで一瞬、医師もまた僧侶と同様の(仏教的というよりも)民間信仰的な世界観(パースペクティブ)を共有しているのかと思う。僧侶は、よく食べる方だと思う、できれば避けたいが、お布施として貰ったものは食べないわけにはいかない、と答える。それに対し医師は、ニワトリの肉は尿酸が多いから、食べ過ぎると関節に溜まって痛むのだと言う。つまりここで医師は、実は一貫して医学・科学的な世界観(パースペクティブ)に従って「診療」を行っていて、僧侶との対話は行き違っているのだが、「ニワトリ」を介することで、あたかも対話が成り立っているかのようになるのだ(ここでは会話による「切り返し」が成立しているのだが、カメラはずっと一方向から撮影していて、モンタージュ的な切り返しは起らない)。

この場面はそれだけでは終わらない。医師がなにか金銭トラブルを抱えているらしいと察した僧侶は薬草を医師に渡して、これを飲むと精神が安定すると言い、そして医師はそれを受け入れる(後に、それを飲んでいる場面もある)。ここで医師と患者の関係が逆転し、医学・科学的な世界観に貫かれた病院という場が、民間信仰的な世界観に塗り替えられるという「切り返し」が起きる。

その後、ある男から婚約して欲しいと告げられた女性の医師は、自分が失恋した話しを男に返すことで、その返事とする。ここでも、まったく別のものであるはずの「二つの失恋」が、切り返し的関係をもつことで交換される。この映画の前半は、そのような切り替えし的関係が成立する時空としてある。

映画の後半は、前半と同じく女性の医師が男性の医師を面接する場面で始まる。前半では、主に質問に答える男性の医師の方を向いていたカメラは、後半では主に質問をする女性の医師の方に向いている。つまりここで、間に50分くらいの時間を挟んだ切り返しが行われている。ただし、後半は前半とは異なり「切り返し」が起らない時空になっている。いや、起らないというより、別種の切り返しの時空と言うべきかもしれない。

前半の舞台となる病院は、大きな窓があり常に外光で満たされ、直線的な病院の建築と、窓から見える繁茂する有機的な緑とが同時にフレームに収められていた。しかし後半の主な舞台は地下にある病棟であり、そこに外からの光は射さない。また、医学・科学的パースペクティブ民間信仰パースペクティブとの切り返しも起らない(そこでは、既に医療の側に取り込まれた---僧侶ではなく---医師による「チャクラ」療法が行われるが、上手くいかないし、それを受ける少年もその療法に好意的ではなさそうだ)。

ただしここには別の切り返しがある。病棟には、治療だけでなく、義足や義肢をつくるための工房が併設されており、それを使いこなすための訓練(リハビリ)施設もある。さらに、病院にはスポース施設が併設されているようで、長い廊下を介して、医師たちとスポーツをする市民が頻繁にすれ違う。病院はただ病気を治すたけの場ではなく、様々な文脈で人々の健康的な生活をサポートする場となっている(そしてそれが、ラストの、公園でエアロビクスをする人々の描写に繋がる)。前半では、三つの果たされない恋愛感情(男から女性医師へ、女性医師から蘭を栽培する男へ、歯科医=歌手から若い僧侶へ)が示されるが、後半では男女カップルが既に成立していて、抱擁を行いキスをして、その反応として男性医師が勃起する。

とはいえ、後半で印象的なのは、なんといっても地下病棟の閉塞感だろう。入院中の少年が、テニスのボールを廊下の奥にある扉に打ち付ける乱暴な音や、工事中で壁を破壊する荒い音が耳に残る。少年は、苛立たしげに奥の扉にボールを打ちつづけるが、その奥の扉から出てくる人たちと切り返し的関係が結ばれることはない。あるいは、カメラを凝視するような、年配の女性医師の会話から切り離されて誰にも向かうことのない眼差しを、見返すような切り返しは発生しない。閉じられた部屋に充満する、どこにも逃げ場のない「煙」(ディシャンの「大ガラス」が想起される)は、真っ黒な吸い口のダクト(リンチが想起される)に吸い込まれるしか行き先がない。