2022/03/21

●『リバー・オブ・グラス』(ケリー・ライカート)をU-NEXTで観た。『ライフ・ゴーズ・オン』、『ナイト・スリーパーズ』、『オールド・ジョイ』、『ウェンディ&ルーシー』と観てきて、ケリー・ライカートは五本目。あと『ミークス・カットオフ』を観れば、日本で公開された作品は全部観られたことになる。

94年に公開されたデビュー作。最初の方は、抑制的だった今まで観た作品とちょっと違った調子で、インサートカットの多用や背景情報を語るナレーションなど過剰でバタバタしていてやや戸惑うが、しばらくして慣れてくると、今まで観たものと基本的には変わらないのだと分かる(後半は、インサートカットもナレーションも少なくなり、抑制的になる)。

(たとえば、主人公の一人であるコージーが夫と住むために買った家がいわゆる事故物件だったことや、父の仕事が警官であることから、血まみれの女や死体の写真などが頻繁にインサートされるが、こういうこともやるのかと意外に感じた。)

まず驚くのが、コージーの子供に対する無関心だ。三人も子供がいるのに、彼女が子供に関心を向ける様子が一切感じられないよう描写される。しばらくは、彼女がベビーシッターのような仕事をしていて他人の子供を預かっているのかと思って観ていたくらいだ。子育てに追われることで社会的関係から疎外されて孤独になるという話しはよくあるが、そういう問題ではない、ということが示されている。彼女の孤独や疎外感は子供(子供の有無)とは関係がない。いや、違うか。彼女は、子供に関心がもてないにもかかわらず、三人も子供を産んでしまうくらいに、今ここを構成している現実(土地や人物たちの織りなす諸関係)に対しての接点(能動的介入が可能だという感覚)を見失っている。コージーは、ここにいるのに、ここにいない。庭で眼を瞑ってくるくる回っていたり、プールで泳ぎながらゆっくりと旋回をしたりする彼女の身体は、どこにも所属しないまま、どうしようもなく「ここ」に縛られてある。ここで、『オールド・ジョイ』で、ピクニックに行かずに家に置いておかれる不機嫌な妊娠中の妻を思い出した。

もう一人の主人公リーには、コージーと違って友人がいる。閉塞し、希望がないが、孤独ではない。リーは祖母の家に住み、そして何もしていない。何もしていないのではやく起きる必要はないのに、祖母は毎日八時に起こしに来る。彼はこの家にいる限りは働かなくても生きていけるが、それが彼をこの家や現状に縛り付けている。友人もまた彼と似た境遇で、父の店で働くことで生きて行けているが、それが彼を縛っている。リーは友人に「怒りで死ぬまでオヤジの店で働くんだろう」と言う。これは勿論自分に対して言っている。

コージーとリーが出会い、銃によって出来事が起動する。しかしそれは、決して犯罪に至らない犯罪未満であり、決して恋愛や性愛に至らないカップル未満であり、決して逃亡に至らない逃亡未満で、二人の行為は不能である。ただしここで、二人の置かれた立場には決定的な違いがある。コージーは追い詰められているが、リーは(苛立っているかもしれないが)追い詰められてはいないようだ。コージーは、子供を置いたままで自らの意思で夜遊びに出かけるが、リーは、祖母に銃を向けたことで家から閉め出されただけである。彼は彼なりに順応しているようにみえ、閉め出されなければずっと家にいつづけただろう。

(コージーの父が叩くドラム---とてもかっこいい---にのって、二組のカップル未満が交錯する。まずは、いい感じの雰囲気でバーにいるコージーの父と中年女性。女性はなんとなく父に誘いをかけるが、銃を紛失してしまった父はそれどころではない。そして女性は、鏡のなかの年老いた自分の顔を見る。ちょっとしか出てこないが、この中年女性の存在がすばらしい。次にコージーとリーで、身支度をして子供を置いたまま家を出るコージーと、家から閉め出されて車を走らせるリー。この二人が、道路で接触しそうになる。コージーは、この場面では靴をはいているが、これ以降はずっと裸足だ。リーもずっと裸足。足の裏が汚い。)

誤って銃を撃って人を殺してしまったと思い込んだ二人が逃亡し潜伏をする。この出来事は二人にとって、災厄であると同時にチャンスでもあり、破滅であると同時に救済でもある。何者でもなかった自分が殺人者という特別な存在となり、縛られた場所から逃げる口実が出来、孤独だったのに共犯者が出来る。コージーにとっては、見失われていた現実との繋がりが生じたのだ。逃亡資金を調達するためにリーの家に忍び込んで、リーが物色している間、レコードをかけてダンスを踊るコージーの身体は、自分の家の庭でくるくる回っていた時に比べてずっとしっかりと「ここ」に存在しているように見える。

(ここでコージーは、父から逃げて「サーカス」で命がけの綱渡りをしているという---想像上の---母を反復しているとも言える。)

(とはいえ、二人の行為は常に空回りする。強盗しようとしても、強盗という行為を別人に先取りされるし、大量に盗み出したレコードは、少しもお金に換えられないまま放置される。二人の徹底的な「お金の無さ」は、ロメールの『獅子座』を想起させる。)

だが、ここでも二人の間には決定的な違いが発生する。実際に銃を撃ってしまったコージーをモーテルの部屋に隠し、顔を見られていないと思われるので逃亡のための資金を調達しようと外を走り回るリーは、はやい段階で、殺したと思った人物がまったく無傷であったことを知るが、それをコージーには言わない。コージーが殺人者であり(そう信じ)、シリアスな逃亡者であるのに対して、リーは偽の逃亡者であり、彼にとって殺人はコージーと二人で逃げるための口実(嘘)にすぎなくなっている。ここでコージーは、殺人者という特別な地位を失うだけでなく、リーという同志を失う(リーは、シリアスな同志ではなかった)。あるいは、「母」を反復することにさえ失敗する。そのことを知ったコージーの尋常では無く沈痛な顔(この顔がすごい)。そこに「誰にもわからないだろう、そよ風のように自由だと、わたしだけが知っている、わたしの惨めさだけが」という曲が被さって終わる。

(父親と折り合いの悪い上司が、なぜか職場に場違いな緑色のラメのドレスを着た妻を連れてきて、妻がそこに貼ってある数々の死体の写真を見てしまうという不思議な場面も印象的だ。物語的な整合性としては、妻と外食していた上司が、緊急事態---父が銃を紛失する---が発生して急遽そのまま駆けつけたということだろうが、そういう因果とは関係なく印象に残る。)

(サイコパスに犬の肉を食わされたとか、余計な話しばかりする父の同僚も面白い。)