2021-08-16

●『灯台へ』(河出書房新社世界文学全集)の、巻末の鴻巣友季子による解説によれば、この小説を読んだウルフの実姉ヴァネッサは、「気味がわるいくらい実物に忠実に書かれている」と言ったそうだ。ウルフは四人きょうだいの三番目の子だが、父、母とも再婚で、父に一人の連れ子がいて、母に三人の異父きょうだいがいるそうなので、父と母の子供は小説と同じ八人(男女の構成も同じ)だという。だとすれば、ウルフは八人きょうだいの下から二番目で、小説でいえばキャムの位置にある。キャムは、八人の子供たちのなかで最後に名前が出てくる(作中になかなか登場しない)。子供は八人と書かれているけど、七人分の名前しか出てこないなあと思いながらしばらく読み進めて、やっと(29ページに)八人目のキャムという名前が出てくる。そして、第三部でキャムは、(父に強く反発する末の弟のジェイムズに対して)主に父への愛情---そして、書斎の老人たちから得られる安心感---を語っている。それで、なんとなく「なるほど」と思う。キャムが書斎の《老紳士》たち(父、バンクス、カーマイケル)に感じる信頼感や安心感と、リリーによるカーマイケルへの信頼(無言の対話の相手への信頼)とは、どこかで通じているように思われる。

(ウルフは、二人の異父兄から性的虐待を受けていたそうだが、小説のなかにその影はもちこまれていないようだ。)

以下、キャムがはじめて登場する場面の引用。ラムジーの旧友である科学者ウィリアム・バンクス---子供のいない男やもめ---の視点から語られる(第一部、第二部には、キャムの内声はない)。

《(…)ラムジーの末娘の幼いキャム。彼女が土手でスウィート・アリッサムを摘んでいた。おてんばで気性の激しい子だ。「このおじさまにお花をあげなさい」といくら乳母が言ってもきかない。やだやだやだぁ! ぜーったいにあげない! そう言って。こぶしを固く握る。地団駄を踏む。そんなことをされると、バンクスは急に老いぼれた気がして悲しく、やはり自分の友情観が間違っていたのかな、という気分にさせられた。きっと世間の目には、干からびたよぼよぼ爺さんに映っているだろう。》

《どの子がどの名前で、どの子が何番目なのか、バンクスにはいまひとつ憶えられなかった。だから、英国の王族風のあだ名をこっそりつけていたのである。いじわる女王キャム、非情王ジェイムズ、正義王アンドルー、うるわし姫プルー---プルーは美人になるだろう。バンクスは思った。いやでも美人になる---それからアンドルーはずばぬけた頭脳の持ち主になる。》

●自由間接話法によって、話者の声とそれぞれの登場人物たちの内声(内省)とが自由に入り交じるこの小説において、主要な登場人物中で内声で語ることが一度もない特権的な人物がオーガスタ・カーマイケルだろう。

カーマイケルは、白い髭をアヘンで黄色く染めて、眠っているのか本を読んでいるのか分からない感じで、ほぼ「ただ居るだけ」で、彼の起こした出来事(彼が立てた波風)といえば、晩餐の場面でスープのおかわりを頼んでラムジーを苛立たせる、というくらいのことだ。にもかかわらず、第一部の中心人物であるラムジー夫人にとっても、第三部の中心人物リリーにとっても、ひとつの大きな謎として強い存在感をもっている。第一部のラムジー夫人にとっては、自分の影響力の圏内に決して入ってこない他者であり、第三部のリリーにおいては、実際に言葉を交わさずとも対話が可能であると信じられる、自分と世界との紐帯であり得るような人物と「想定されて」いる。

(カーマイケルと同様に、ミンタ・ドイルの内声が前に出てくることもない。ただ、ミンタは声に出して多くを語り、あけすけに行動するので、心の動きを他者が推測し易く、つまり彼女の場合多くのことが既に表に出ている=表現されているので、内声がなくても謎という感じはない。カーマイケルと対極の位置にあるとも言える。)

そもそも、カーマイケルは、誰とどういう関係であることでラムジー家の別荘に招かれているのかよく分からない。たとえばバンクスは、今では疎遠になってしまったがかつてはラムジーと非常に親しかった旧友とされるが、カーマイケルがラムジーと親しいようにはみえない。にもかかわらずカーマイケルは、(ラムジーの娘であり、ウルフと同位置にある)キャムにとっての安心の象徴である「書斎の老紳士たち」の一人に数え上げられてさえいる。それは、「ラムジーの書斎」に頻繁に出入りすることを何故か許されているということでもあるだろう。

第一部のカーマイケルと第三部のカーマイケルは異なっている可能性がある。第一部のカーマイケルは、詩を書いているらしい無名の老人にすぎなかったが、戦争中に出版した詩集で成功し、第三部では著名な詩人となっている。しかし、カーマイケルが目をかけていた---八人のきょうだいのなかでも特に頭のよかった---アンドルーが戦死してまったことで、彼は「人生に対する興味をすっかり失った」とされる。つまり、第一部のカーマイケルは、無名ではあるがその後に成功する詩集を書けるポテンシャルをもった人物だったが---勿論、第一部の時点でこのポテンシャルを知る者はいない---第三部のカーマイケルは、著名ではあっても、すべてにやる気をなくしてただラリっているだけの老人である可能性もある。

それでもリリーは、カーマイケルに対する根拠のない信頼(なにしろリリーは彼の詩集の一冊すら読んだことがないので、この信頼にそもそも根拠もなにもないのだ)をテコにするようにして、言葉を交わすことのないまま、カーライルの存在と対話をし、その対話の果てに、自分自身のヴィジョンを見出す。この「信頼」を「根拠を欠いたもの」だとして読者が受け取り得るのは(もしかすると、やる気をなくしてラリっているだけかもしれない老人を、それでもなお信頼し得る者=媒介と仮定して、それに賭けているのだと思えるのは)、カーマイケルの内声が明かされていないからだろう。様々な声が響き合い、相互に影響し合い、相互に作用し合うこの小説の世界にあってさえ、このような非対称的な形でしか成り立たない非対話的対話によってのみ可能ななにものかがあるのだ、ということをウルフは書きたかったのではないか。

そして、くり返しになるが、リリーをヴィジョンに導くこの「根拠のない信頼感」は、キャムが「書斎の老紳士たち」から得る安心感と繋がっているように思われる。