●『贖罪の奏鳴曲』をhuluで観た。さすが、という感じではある。ほとんどそのまま『ユリイカ』その後ともいえる話なので、青山真治がこのドラマの監督をやっているというのには納得する。
同時に、あからさまに母-息子関係にかんする話でもあり、染谷将太ととよた真帆、菅田俊とその母親、百瀬朔とその母親という三つの母-息子関係が、三上博史とその母親という関係と重なってくる。事件を追っていくことを通じて、染谷将太ととよた真帆との関係を、自分と母親の関係の「寓意(あるいはvariant)」であるかのように、三上博史は経験する。そして、母に対する憎悪が、そのまま母への依存であるような三上博史の前に、第三項=父としての位置にリリー・フランキーが現れるというような話とも言える。
(『ユリイカ』は2000年なのか。そんなに昔なのか。まあでも『ユリイカ』は、感じとしては九十年代の映画なんだな。)
(ずいぶん前に観たっきりなので細かくは覚えていないが、『ユリイカ』においては「父」のイメージは希薄かつ戯画的だったと記憶している。役所広司は父というより、『贖罪の奏鳴曲』の医療少年院の教官のような---兄貴、あるいは代理的な母みたいな---感じで、リリー・フランキー的な人物ではなかったはず。ちゃんと確かめていないけど。)
(リリー・フランキーは、父としての位置に現われるというより、その粘着性や自己の信念への忠実さ、当初と終盤とでの三上博史に対する態度や認識の変化など、すべて含めて---事後的に---第三項として父的に機能する、という感じか。父という位置を、フロイト-ラカン的に超越的な審級と考えるのではなく、二項関係を媒介しつつ切れ目を入れる第三項---たんなる一人の他者---と考えると、『贖罪の奏鳴曲』のリリー・フランキーみたいな感じになると思う。例えば堀部圭亮---判事---とかも、また別の一人の他者と言えるか。)