2022/04/27

●昨日の続き。『荒野の女たち』について、昨日の日記で触れられなかったことがある。この映画にでてくる7人の女性のほとんどは、社会のなかに居場所を持てなかったか、社会のなかで癒しがたい傷を負わされた人たちで、そうする以外に選択肢はなかったという形で、辺境でひっそりと暮らしている。しかし、一人だけ若い女性がいて、彼女は両親がともに宗教者だったことで、この閉ざされた場所にいる。つまり彼女は必ずしも「そうする以外に選択肢がない」わけではない。彼女はまだ、社会のなかで生きる可能性を閉ざされているわけではない。

(この映画にはもう一人、両親ともに宣教師であったために、生まれた時からずっと中国の宗教コミュニティで生きてきたという、年輩のイギリス人女性がいる。この女性は一度もイギリスに行ったことがないと言う。)

だから女性医師は彼女に、こんなネズミの巣からは出て行けと忠告する。この言葉は、宗教コミュニティへの嫌悪もあるだろうが、医師自身もまた「ネズミの巣」のような場所にしか職場を得られなかったという無念さからもきているだろう。若い彼女にはまだ、社会のなかで可能性を探る余地があり、ならば、それをつぶしてはならない、と。

だとすれば、映画後半の女性医師の自己犠牲的な行いは、彼女のために、彼女に向けて行われたものだと考えることもできる。彼女に、可能性を試す機会を与えるために、自分はここで犠牲になる。医師の行為は、彼女に何かを託すということであり、また、その行為そのものが彼女へのメッセージとなる。残された女性医師と、馬車に乗ってそこを離れる若い女性との切り返しのモンタージュが、それをあらわしていると思われる。

(それに加え、そこに新生児---これは男の子だが---がいる、ということもあるだろう。)