2022/04/26

●『荒野の女たち』。ジョン・フォードの遺作を、実ははじめて観た。フォードの最後の作品が、まるで怒れるフェミニズムの闘士がつくったかのような映画であることに驚く。ひたすら苦く、地獄のような世界が展開されるこの映画をすばらしいと言っていいのか分からないが、すごいものではあった。

前半は、異色作ではあっても、そこまで驚くということはない。中国の辺境で、地域の子供たちの教育を行うプロテスタントの布教コミュニティ(女性ばかりで男性は一人しかいない)。厳格だが旧弊な価値観で硬直化したこの集団に、外からまったく異なる価値観をもつ無頼派の女性医師がやってくる。集団のリーダーからすると悪魔の手先のような存在だが、集団には高齢で出産をひかえる者もおり、医者は必要だから認めざるを得ない。医師の存在は、集団と軋轢や対立を引き起こしながら、集団の空気を変質させる。旧弊な集団に自由な撹乱者。物語のパターンとしてはありがちとさえ言える。コレラの発生と、医師の献身的な努力によって、医師はこの集団のなかでの一定の位置を確立する。とはいえ、この医師のありようは、集団には決して受け入れがたいところがある。

ここまでが半分。ここまでで分かるのは、わざわざ異国の辺境までやってきて布教のコミュニティを形成している女性たちの多くは、社会のなかで居場所を見つけられなかったり、暴力によって傷つけられ「過去の人生を閉ざす」ようにして信仰生活をはじめた人々だということだ。その点については(無神論者である)女性医師も同じで、8年も医学の勉強をしたが、女性であるという理由でろくな仕事も与えられず、さらに妻子ある男との関係に破れて土地を去らざるを得なくなった。彼女たちは、社会からはじき出され、このような辺境に来ることでようやく、わずかばかりの生きる場所を確保できる。この、ようやく確保できたわずかなシェルターにさえ、外から(男性集団による)圧倒的な暴力が襲いかかる。それが後半だ。

無制限に略奪と殺戮を繰り返す馬賊への恐怖は、映画の前半から繰り返し語られる。前半には、この馬賊に襲われて逃げてきた、ことなる宗派の人たちが集団に加わる場面もある。しかし彼等は何故か、東洋人を無制限に殺戮するが、西洋人女性には手を出さない(西洋人の男性は殺された)。手を出さないが、建物や施設を破壊し、乗っ取り、彼女たちの宗徒である中国人たちを殺しまくる。女性たちは粗末な倉庫に監禁される。

この馬賊の描写が異様だ。彼らはとにかく「自分の力」を誇示する。殺せる相手は際限なく殺すし、破壊できるものは破壊する。酒を呑んでの余興で、仲間同士でも殺し合う。この仲間同士の殺し合いでは、最後にリーダーが出てきて自分が一番強いことを示す。そして、やたらと人に哄笑を浴びせるのだ。強い者が偉くて、力の誇示と哄笑による見下しによって序列をつくる。強い者には従い、弱い者には哄笑を浴びせる。この、観ていてただ気が滅入るような描写は、物語を適度な説得力をもって語るということから考えて、明らかに過剰であるように思われる。この過剰は、フォードの人間(というか男性集団?)に対する不信と怒りのあらわれのように感じられてしまう。

(馬賊たちの暴力描写は、過剰であるだけでなく、前半の押さえたトーンに対して唐突であり、形式的、趣味的にも非連続的で浮いている。)

倉庫に監禁された女性のなかには、高齢での出産をひかえた者がいる。ちょっとした勇敢な行動(馬賊の男の横っ面をはたく)によって馬賊のリーダーに目をつけられた女性医師は、自分の身を差し出すという条件をのみ、出産に必要な状況を整える。このあたりになると、女性医師の存在を受け入れないのは信仰集団のリーダーただ一人ということになってくる(集団のなかで浮いているのは医師ではなく集団のリーダーとなる)。女性医師はさらに身体と引き換えに、出産後の新生児のケアに必要なものや女性たちの食料を敵から引き出す。そして、馬賊のリーダーの愛人のようなものになることで、女性たちを粗末な倉庫から、それよりは快適だと思われる部屋へ移動させる。女性医師としては、自分を受け入れなかった(信仰リーダーは未だ受け入れていない)、まったく気の合わない女性たちを救うために、とんでもなく酷い目に遭うことを自ら受け入れていることになる。

暗闇のなかから、キモノまがいの醜悪な衣装を着せられた女性医師が浮かび上がる(馬賊のリーダーの趣味なのだろうが、常に乗馬ズボン姿の彼女にとっては屈辱的なことだろう)。医師は女たちの部屋に入り、解放すると言っているから馬賊のリーダーの気が変わらないうちにはやくここを出ろ、とせかす。そして彼女は、自分の鞄から毒薬を取り出す。それに気づいた女性の一人が、「それは神に対する罪だ」と言うのに対し「だから私のために神に祈って」と返す。女性医師が従属するフリをして馬賊のリーダーに毒を盛り、同じ毒を自分も飲むところで映画は終わる。

映画の前半は、宗教の科学に対する敗北を描いているようでもある。コレラが蔓延するなかで、宗教者たちは医師の言葉に従うしかなくなる。医師もまた、「医学に忠実」に献身的に働く。コレラの元で(無神論者が持ち込んだ)医学こそが共通の価値観となる。では、後半の自己犠牲的な医師の行動は何によるものなのか。勝ち目のない圧倒的な暴力の元で「より少なく負ける」にはどうすればよいのかという合理的な思考により、自分が犠牲となるのが適当であると判断したのかもしれない。このような考えは、利己的ではないが、合理的ではある。実際、医師が犠牲となることで、医師以外の女性たちと新生児は解放され、自らを侮辱した馬賊のリーターを殺すことができた。全体としては「より少ない負け」を得た。だが彼女が、利己的ではないが合理的な判断をするという時、「利己的ではない」判断をする「合理的」な理由はどこにあるのか。合理的ではなくても利己的である方が、彼女個人にとっては合理的であるはずだから。

それは、コレラに対する態度と同様に科学的な精神によるものなのか。そこにはあったのは、気も合わないし、理解も出来ず好きにもなれないとしても、自分と同じように辺境に追いやられて生きざるを得ない女性たちへの彼女の共感ではないかと思う。決して好きになれない人たちへの状況的共感。