2022/01/18

●納得できる。こちらの方が実感に近い。

約100年も信じられてきた身体概念を修正 〜運動するときの「心の中の身体」は一つではない〜(東北大学)

https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/01/press20220118-01-kokoro.html#.Yeou-Ra04PY.twitter

●『そこにない家に呼ばれる』(三津田信三)を読んだ。まったく予備知識もなく、作家の名前もはじめて知るのだが、最近のおもしろそうなミステリをアマゾンで探しているときにこのタイトルが目に入って、タイトルに惹かれて(タイトルに呼ばれるように)読もうと思った。

家の幽霊というか、存在しないはずの家に関する三つの怪異の話が語られ、それぞれ無関係だと思われた三つの話に実は関係があったということが推理されるというのが、一冊の長編としての構成で(それぞれの怪異は怪異のままだが、その関係と連続性が合理的な手続きで解明---というより推測---される)、さらに、この本は三部作の三作目であるようで、その三部作を通じての仕掛けもある(以下にはネタバレがあります)。

一つ目の怪異が最も長く、詳細に描かれるが、これがぼくにはあまりおもしろくなくて、ああ、タイトルから期待したものとは違ったかと思ったのだが、(断片的で、欠落の多い)二つ目の怪異にとても惹かれるものがあった。怪異というのは、できるだけ加工されていない形で、その怪異の本質的なところだけがごろっとあるという状態が最もリアルであるように思われる。

一つ目の話は、人には見えていない家が、自分(+もう一人)にだけ見えているという話で、さらに、自分にだけ見えているその家に取り込まれてしまいそうになるという話だ。対して二つ目は、自分には空き地にしか見えない場所に、あたかも家が建っているかのように(不動産屋も含めた)その近所の人たちには振る舞っている。そして、自分には空き地としか思えない、見えていないその家を、不動産屋から借りて、その空き地のテントを張って生活しはじめる。すると、テントの内側から外(テントの外だが、見えていない家の内側だ)に人の気配を感じ、見えていないその家に、見えていない住人が帰宅してくるようさえに感じるようになる。

三つ目は、精神科医が模型の家と模型の室内を患者につくらせることで治療する「心宅療法」の治療を行っている時に、密室であるはずの診療室から患者が消えてしまう、という話。で、ネタバレだが、一つ目の話で見えない家に取り込まれそうになった男が、三つ目の話で治療を受けている(そして消えてしまう)患者で、その患者の担当だった女性の医師が、二つ目の話の話者であった、ということになる。三つ目の話で患者である男は、一つ目の「自分にしか見えない家」を治療室で模型として再現し、その再現によって一つ目の家とのアクセスが開いてしまって、そこに取り込まれた。そして担当した医師は、おそらく消えた男の友人から事情を聞いて、一つ目の話の「そこにない家(空き地)」を探していた、と。

それぞれの話は非合理であるが、三つの非合理間の(常識的世界内での)関係が、ミステリ的な伏線とロジックで解かれる。さらにそこに、三部作を通じて仕掛けられた、怪異的な出来事が乗っかっているので、合理的な解決が、上からと下からの二重の怪異的出来事のレイヤーに挟まれている感じなる。

その構成もそれはそれとして、成る程と思う程度にはおもしろいのだが、それでもやはり、最も惹かれるのは、二つ目の話それ自体だ。

二つ目の話は、話者が自分に宛てた手紙という形をとっている。しかしその手紙は、自分が行方不明になった時にその理由を他者に対して伝えるために自宅へ送っているもので、つまり話者は自分の身の危険を予測し覚悟して行動している。また、話者はある土地(空き地)を探しているが、不動産屋はそこに家が建っていると言う。しかしその住所に行くと空き地しかない。だが近所の人はそこに家があるかのように振る舞う(さらに郵便局員までが、あたかもそこに郵便受けがあるかのように、手紙を届ける)。この不可解な食い違いのなか、話者は無い家を賃貸し、空き地に住み込むというところまで踏み込む。なぜ空き地を探しているのか、なぜ身の危険を自覚しているのか、なぜ信じがたい行き違いをある程度受け入れているのか、なぜわざわざ空き地を賃貸してまでそこで過ごすのか、それらの理由は(その後、合理的に推測されはするが)二つ目の話そのものには書き込まれない。

様々な不可解に合理的な説明がないままで事が進行し、そこで話者は無いはずの家といないはずの住人を「感じる」。何も説明されないし、はっきりと何かが起こるわけでもなく、何も解決されないが、そういう状態であるからこそ、テントの薄い布のみに隔てられたその先にある、何か決定的に異なるもの、ヤバいものに触れてしまっているという感じのみが抽出されてそこにある感じがでるのだと思われる。