ヴィム・ヴェンダース『アメリカ、家族のいる風景』

映画美学校第2試写室で、ヴィム・ヴェンダースアメリカ、家族のいる風景』。完全に納得させられるというわけではないにしろ、この映画のヴェンダースはかなり復活してきているという感じがした。この映画は結局、だらしない男が、良い母親、良い(昔の)パートナー、良い娘(この「娘」に関してはちょっと保留をつけたいのだが)といった「女たち」に支えられるという話で、これほど他者からの愛によって支えられている男が、「愛を失った男」を気取って苦悩したフリをしてみせる姿は滑稽だとしか思えないのだが、それはあくまで「男」を中心としてこの物語をみた場合の話で、実はこの主人公の男(サム・シェパード)は全く空虚な存在でしかなく、この映画の中心は、空虚な男によって「捨てられ」、長い時間の孤独を過ごした女たちの方にあるとみるべきだろう。(だいたいイマドキ、西部劇のヒーローばかりをを演じる有名俳優なんていう設定が、成立するはずはなく、この男ははじめから幻のような実体のない存在でしかない。)この映画の厚みは、三十年も音沙汰の無かった息子を、造花の花束で迎え、息子を追う追手にしらっとした顔でクッキーを勧めたりする母親や、突然現れた男を、とまどいながらもしなやかに受け止め、冷静さを保とうとするかつてのパートナーである女によって支えられている。(シネマスコープサイズのフレームは、風景を捉えるためというよりも、サム・シェパードジェシカ・ラングとの再会のショットのために選択されたのではないかとさえ思える。)孤独なのは決して男ではなく女たちの方であり、女たちが男から取り残された孤独な時間のなかで、自らの生をしっかりと積み上げていった厚みこそが、この映画を支えている。だからこの映画を「家族」についての映画だとみると薄っぺらにしか見えないだろう。荒れた生活から逃れるために、ある時ふっと「家族」に頼ることを思いついた(いい気で甘ったれた)男の存在は、ただ「女たち」を物語の場へと召還するためにアメリカを旅する「装置」でしかない、とさえいってよいと思う。特に、男の子供を地方の街で一人で育てているジェシカ・ラングが素晴らしい。冴えない地方の街に映画のロケーション撮影のためにやってきた俳優に入れあげ、夢のようなひと時を過ごした後に、まさに男は夢のように消えてしまい、その男との間の子供だけが現実として残り、「夢の後」の重ったるい現実を受け止め、その地方での生活を受け入れつつ子供を育てたジェシカ・ラングに流れた時間の厚みこそが、スクリーンに実際に映し出される地方の街の具体的な風景と重なり合ってたちあがり、映画のリアリティを支えている。小さなレストランを切り盛りし、街の通りで行き交う人たちと気軽に挨拶を交わす女は、その街での生活に決して不満を持っているわけではないだろうが、以前の男との関係の記憶(それは息子の存在を認識する度に想起されるだろう)によって浮上してくる「今とは別であり得た可能性」によって、常に揺さぶられ、感情を乱されつづけていだだろう。その、どうにも処理し切れない感情の乱れを抱え、それを抑えつつ長い時間を過ごして来たであろう女の前に、唐突に男が現れる。女が、男の出現を、動揺しつつも冷静に受け止めようとするシーンやその表情は本当に素晴らしい。そして、父親の突然の出現に困惑し取り乱す息子を、とまどいつつも受け入れる女の姿もまた、とても素晴らしいと思う。それに比べ、この映画に出てくる男たちは、父親(サム・シェパード)だけでなくその息子(ガブリエル・マン)も、なんと情けなく滑稽なのだろうか。たかだか父親がふいに現れたくらいでおたおたと取り乱し、ラスト近くでは、自分の過去を訥々と「語り出して」しまう息子の情けなさは思わず恥ずかしくて居心地が悪くなるのだが、そんな情けない息子にも、魅力的なパートナーの女性が(フェアールザ・パーク)が傍らに居るのだった。この映画は、決して「家族」をめぐる映画ではなく、情けない男性を、やさしく、そして孤独な女性が支えるというような映画で、孤独な女性は自らの孤独を受け入れており、男性に優しくすることでその孤独が癒されるとは思っていなくて、ただ男性が一方的に女性に寄りかかろうとするような映画に見える。それは、あまりに男性にとって都合の良い物語にみえるのかも知れないが、しかしこの映画で重要なのはあくまで女性たちであり、男性たちの存在はきわめて希薄なものでしかない。(しかし女性たちは、そのような希薄で情けない男性をこそ「必要としている」のかもしれないのだが。)