ヴェンダース『アメリカ、家族のいる風景』(2)

(昨日のつづき、というか、昨日書き散らかしたことをもうちょっと整理してみる。ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』について。)
●この映画が、西部劇のスターで、私生活が荒れている主人公によって、現代のアメリカの「何か」を象徴的に表現しようとしていたとするなら、それは全く安易だとしか言えない。自分の生活に行き詰まると、30年近くも放っておいた母親に急に会いたくなり、撮影現場を放り出して母親のもとへはしり、母親のもとにまで追っ手が迫ると、今度はまた思いつきで、(その存在すら母親に聞くまで知らなかった)息子に会うために出発するなど、この主人公の男は、相手の都合についてなど全く考慮することがない。このような人物を観客に納得させるには、(カサヴェテスやユスターシュのように)映画としてよっぽど強いものであるか、(「アメリカの友人」に出ていたデニス・ホッパーとか、ジャン・ピエール・レオーのような)弱くて駄目であることの(駄目であること自体によって)魅力を発揮するような俳優を起用するしかないだろう。しかし、ヴェンダースはそのような映画作家ではないし、サム・シェパードもそのような俳優ではない。
●だからこの主人公(サム・シェパード)は、映画がアメリカの風景のなかを移動してゆく、その移動のための方便のような存在でしかない。この男の移動によって、カメラはアメリカの様々な風景を横断し、小さな地方都市に暮らす、孤独な女たちと交錯する。
ヴェンダースは物語を語る作家であるよりは、風景を捉える作家であるだろう。そしてその風景は、あくまで登場人物によって現れる(登場人物が「そこに含まれる」)風景であるだろう。例えば、ジェシカ・ラングやガブリエル・マンが済んでいる街の「(客観的な)全景」のショットは、サム・シェパードを追って来た(全くの部外者である)ティム・ロスの「視線」によってはじめてあらわれる。街に住んでいる者は、それを「外から」視た全景を決して知らないのだ。この映画の「風景」は、サム・シェパードによるロード・ムービー的な「移動する目線」による風景、ジェシカ・ラングなどによる、そこに定住している者にとっての風景、そして、ティム・ロスによる、「犯人」を追う追っ手にとっての風景、という、3つの異なる視線が重なることによって、立体的に構成されている。そして、この映画を豊かにしているのは、何よりも、定住する(見捨てられた、孤独な)女たちによってあらわれる風景の厚みであるように思う。
サム・シェパードと関係のあった頃のジェシカ・ラングは、食堂でウェイトレスをしていた。そして30年後の現在、彼女は同じ食堂で店を任されている。その食堂には、30年前に、彼が撮影に来たその映画のポスターが今でも貼られている。確かに、彼女は「出世」したし、子供も大きくなった。つまり30年という時間は経ったのだが、地方の都市では、大して替わり映えもなく、時間は流れずに、ただ沈殿し、人々が歳をとり、澱のようなものが積もっていっただけだとも言える。このような地方都市を、そこに生きる人を、ヴェンダースは物語としてではなく、風景として捉えるのだ。かつて一瞬だけ実現した夢のような時間(サム・シェパードと過ごした時間)の「後」を生きるジェシカ・ラング。そして、息子に捨てられ、夫とは死に別れた「後」の生活を、住み慣れた牧場を売り、そばに巨大なカジノのある郊外の高台の家という、そっけなく乾いた環境で暮らす母(エヴァ・マリー・セイント)。この映画では、充実した「何か」が過ぎ去ってしまった後の、過去から疎外された長い時間を、閉ざされた地方都市で、孤独に、「諦め」を受けれることによって得た上品さと強さと共に生きる「女たち」を捉えているという点で、とても美しい。そして、このような女たちの上品さや強さ(つまり、諦めの深さ)を示しているのが、(勿論俳優の演技もあるだろうが)何よりも「風景」なのだ。
●あくまで「風景」の作家であるヴェンダースと、劇作家である脚本のサム・シェパードとは、相性が良いとは思えない。突然父親があらわれて動揺した息子は、過剰なくらいの反応をみせ、感情を荒立て、二階にある自分の部屋の窓から、家具やら何やらを外へ放り投げる。この息子の行動はどう考えても大げさだし、映画のシーンとしてもそれほど面白くはない。しかし、その行為によって、息子の部屋のある建物の前の道路には、まるで粗大ゴミ置き場のように物がバラ撒かれて、ひとつの舞台装置のような「場」があらわれる。そして、この「場」は、とても重要なドラマが演じられる場所となる。ここで、父と息子、父と娘、(母親の異なる)息子と娘、が出会い、会話を交わし、和解さえする。娘に、ここで待っていると約束した父親は、その場を離れてしまい、しかし娘は父親が戻ってくるのを信じてそこで待ち、そして父は実際に戻ってくる。(そこで、父と息子の和解も演じられる。)だから、この「場」は、街のたんなる一角ではなく、ある特別な意味をもった抽象的な「場」となる。しかし、あくまで具体的な「風景」を拾い、その風景のなかにいる人物を捉える作家であるヴェンダースにとって、舞台装置のような抽象化された場所をクライマックスの場面とするのは、苦しかったのではないだろうか。(だからこそ、息子がふいに、クローズアップで過去を語りだしてしまう、という駄目なショットを平気で撮ってしまうのではないだろうか。)この映画は、往年のヴェンダースを感じさせる素晴らしいところと、あまりに弱く、良くないと思われるところとの差が極端で、それらが斑に混じり合っているように思う。
●それにしても、この映画の男たちはあまりにヘナチョコだ。サム・シェパードがヘナチョコなら、その息子のガブリエル・マンもヘナチョコだ。いきなり父親が現れて取り乱すのは当然としても、(もう30近い年齢を考えれば)息子のその取り乱しようはあまりにみっともない。(そして、ヘナチョコな男たちの傍らには、必ず、しっかりした女たちがついている。)この、男たちのヘナチョコさは、彼らが、自らが「属する」風景を持っていない、ということからくるのかもしれない。彼らが持っているのは、風景のなかを移動する手段(馬や自動車)だけである。しかし、かつてのヴェンダースのロード・ムービーにおける「風景」は、その風景を「見る」(その「風景」をたちあげる)孤独な「男たち」が、その風景から疎外されているということによって、そのなまなましいリアリティが保証されていたのではなかったか。それに対して、この『アメリカ、家族のいる風景』では、そのリアリティは、その風景のなかにいる(その風景の内部に「取り残された」)、孤独な女たちによって支えられているように思える。サム・シャパード(父)は、ガブリエル・マン(息子)へ車のキーを投げ渡し、父から受け継いだ自動車を、息子へと継承するのだが、この父権的継承のシーンは、この映画では全く印象に残らない、ごく弱いものでしかない。