クロソウスキー『ディアーナの水浴』

ドゥルーズ樫村晴香を導きの糸としつつ、クロソウスキーの『ディアーナの水浴』を少しずつ読んでいるのだが、とても難しい。もう少しで「面白く」読めそうな感じはあるのに、なかなかそこまでいかない。シミュラークルという概念の位置づけが鍵になりそうな感じではある。シミュラークルは、反復と関わる。ドゥルーズにとって反復は、「同じもの」の同一性(真理の表象=再演)に関わるのでも「似通ったもの」の等価性(交換)に関わるのでもなく、その都度異なるものが反復するのであり、それはつまり、aがbへ、bがaへと自分自身の力で転じてゆくことで、そのような反復によってaとbという異なるもの同士が(第三の審級抜きで)直接関係することが出来る、と。《反復は<同じもの>、<似かよったもの>を想定しはしない。反対に反復そのものが、異なるものの唯一の「同一」を、そして差異的なものの唯一の類似を生み出すのだ。》(ドゥルーズクロソウスキーあるいは身体-言語」)ここで、同じでもないし、似てもいないものの反復=関係を(第三の審級とは異なるかたちで)媒介するのがシミュラークル(模像)ということらしい。しかしそれに対しての樫村氏の批判は、ドゥルーズは身体-現実的なもののオーダーに属する強度(拍動)と、意味-象徴的なもののオーダーに属する差異(反復)とを短絡的に接続し、強度がそのまま(象徴的な)差異=意味を生産する、かのように言ってしまう、と。樫村氏によると、強度と差異(意味)が結びつくのは「倒錯者」においてのみで、倒錯者は世界の全てを意味=象徴的なもので埋め尽くして、身体-現実的なものを排除することによって(あくまで意味=象徴=意識によって縮減・調整されたものとしての)「強度(の痕跡)」を、フェティッシュとして象徴的なものの内部に固定できるのだ、とする。その時、フェティッシュは常に、絶対者・法・侵犯という概念と結びついてある。フェティッシュは、絶対者や法を侵犯することの出来る(「悪」の)呪物として象徴的なものの内部に(「強度」の痕跡=模像として)位置するのだが、そこで演じられる侵犯(悪)の劇は、固定された、何度も反復される侵犯(強度、拍動という「悪」)の模像(シミュラークル?)でしかなく、つまりそれは言語=象徴の内部で閉じ、完結していて、そこには意識の外から訪れる未知のもの(新たなもの)は存在しない。(ちなみに、欲望を常に先送りし、未知のもの、新たなものの到来を恐れつつ切望する、というのは「神経症者」の欲望であり、「倒錯者」は象徴的なものの内部のみで快楽を得、「完全に満足」するのだ、と。勿論、倒錯者が身体=言語として制御している世界の裏地には、そこには書き込まれていない身体=強度が貼り付き、存在していて、だからこそ「倒錯的な戦略=防衛」が必要なのだが。)つまり樫村氏によれば、(クロソウスキーの)シミュラークルは、象徴的なものの内部に捉えられた強度(の痕跡)としてあり、それは倒錯者の戦略と切り離せなくて、常に絶対者の侵犯(という「悪」)と結びついている、と。例えば性的なものの回帰は、意識-象徴の外からくるものなので必然的に主体にとって「悪」であり、倒錯者はその「悪=性」の訪れをフェティッシュによって象徴的なものの内部に固定させることが出来る。ドゥルーズはそのような倒錯者の戦略(性=悪からの主体の必死の防衛)に対して無感覚でありすぎ、あっさりとシミュラークルと侵犯を切り離してしまう、と。《その(マゾヒズム型の倒錯的な)防衛-光景内部では、すべてはあらかじめ知られた劇-視線として展開しなおされるので、主体は無力さと引き換えにその場の暴力から外在化し、切り刻まれることを免れる。(略)この主体の外在化によって、外部から来る主体の性的拍動としての悪は、主体の外側の劇として無害化され、意識/無意識、能動/受動の差異の抹消と並行して、悪と善の境界は消失し、悪は悪のシミュラクルとなり、真の「善悪の彼岸」が訪れる》(樫村晴香ドゥルーズのどこが間違っているか?」)
●『ディアーナの水浴』では、無感動で永遠のものとしての神が一方にいて、もう一方に、被感動的で死するものとしての人間がいる。本質的に非限定的で姿形を持たない神と、限定された死する(形に捕われた?)人間とを媒介し、人間であるアクタイオーンが、女神であるディアーナを犯そうという「想像」を抱くことを可能にするのが、神と人間の中間にいる、被感動的で永遠のものである「ダイモン(=シミュラークル)」ということになっている。本来、非限定的で形をもたない神は、ダイモンによって(ダイモンの「形」を借りることによって)しか、自らの形を出現させることが出来ない。(しかし何と、神の「好奇心」は、自らの姿を見たいと欲するので、ダイモンから形を借りるのだ。)つまり、神の「目に見える姿」は、ダイモンによって与えられた、ダイモンの似姿でしかない。(女神のイメージは、女神そのものではなく、ダイモンのイメージに過ぎない。)ダイモンの姿を借りて「目にみえるもの(姿形をもつもの)」になった神は、必然的に、人間から「見られ得る(侵犯され得るる)」存在となる。しかしここで勿論、人間が「見る(侵犯する)」ことの出来るものは、神自身ではなく、ダイモンの似姿(シミュラークル)に過ぎないのだが。水浴する女神の裸の姿を覗き見たいと妄想するアクタイオーンが「見る(侵犯する)」ことが出来るのは、女神そのものではなくダイモンの姿をまとった(ダイモンの姿である)女神に過ぎないのだ。しかしそうだとしても、例え見られたものが女神自身ではなくダイモンの似姿に過ぎないとしても、人間から「見られる」ことによって、無感動のはずの神になにかしらの動揺(恥)を与え得る(つまり、侵犯し得る)のではないか。というか、むしろそれは予め「神」によって望まれた事なのではないか、と『ディアーナの水浴』は語っている。
●この点だけをみれば、樫村氏が描いている「倒錯的者の欲望(戦略)」の姿ときれいに重なるように思える。しかし、おそらく倒錯的であるよりは、より神経症的であるのだろうぼくには、単調にくり返される侵犯の劇によって防衛される主体や、そこで発動する欲望や快楽について、感覚として正確にシミュレーションし、追体験することは難しい。むしろぼくの内発的な身体感覚としてはクロソウスキーよりもドゥルーズに近いように思われ、だからドゥルーズの書くものの方が(どちらにしても難しいことにかわりはないのだが)すんなりと納得しやすい。ただ、『ディアーナの水浴』がぼくにとってむつかしいのは、たんにぼくが、ギリシャ神話やキリスト教についての教養があまりに貧しいせいなのかもしれないのだけど。