●引用、メモ。ジョアン・コプチェク「エジプト人モーセと、南北戦争以前の南部における黒人の大乳母....」(『女なんていないと想像してごらん』収録)より。メタ言語は存在しないし、権力の外(メタ権力)も存在しない。(以下の引用でコプチェクが最も言いたいのは、ドゥルーズやフーコーに反して、メタや外部をつぶすものが「現実」という「否定」である、という、「否定」の重要性であろう。)だからこそ、言語や権力は自身の内部へと折れ曲がり、折り畳まれ、自己分裂的、自己言及的にならざるを得なくなる。ここまでは納得出来る。(つまり力を折り畳ませるものが「現実という否定」なのだ。)そして、言語や権力がそれ自身へと折れ曲がる地点こそが、主体化の場所だということも理解出来る。権力は、折り畳まれた権力自身によってのみ、自らを限界づける。しかし、そこに自由をみることが本当に可能なのだろうか。以下、引用。
●《ドゥルーズは、フーコーは『性の歴史』を書いたことによってみずからを窮地に追い込むことになった、と考えている。権力関係に外部は存在しないというテーゼは、袋小路に行き着いた。なぜならそのテーゼは、「『権力の真理』ではないような『真理の力』を想像すること、権力の総合線ではなく抵抗の横断線を解放するような真理を想像すること」を不可能にしたからである、と。ドゥルーズの読解によれば、『快楽の活用』のフーコーは、セクシュアリティを権力によって構成されるものとしてだけでなく、権力の外部が内部化されたものとして、あるいは権力の外部が権力の内部に折りたたまれたものとして捉えることによって、この袋小路を突破していった。ここで気がつくのは、権力には外部がないというテーゼがこの修正によって損なわれてはいない、ということである。テーゼは無傷のまま残る。権力の外側には依然として外部はないが、ただし今度は権力の内側に外部があるのだ。》
《(ドゥルーズによれば)フーコーは、ギリシャ人がいかに力forceを折りたたんでいたか、彼らがいかに力を反り返らせていたか、ということを示してみせる。こうした言い方をする際、念頭にあるのは、ギリシャ人たちが節度ある性生活を実践するのは断念や犠牲といった道徳心によるのではない、むしろそれは自己形成の行為、自己を変えるための克己の実践を構成している、というフーコーの議論である。ギリシャ人は、セクシュアリティにおける受動的な状態から自由になるために、情念に囚われた状態から抜け出すために、性的欲動に対する自己制限ないし自己抑制を行うのである。ドゥルーズの読解において、この自己抑制は、セクシュアリティを禁欲的に抑制するものとしてではなく、セクシュアリティ自体を定義するものとして浮上する。ここにいたってセクシュアリティは、外的な規定に抵抗する、自己に対する---あくまで自己であって、他者ではない---関係として考えられている。》
《力が突然折り曲がるようになるのは、自己制限をするようになるのは、なぜなのか。それは、現実的なものが介入するからである、といえるだろう。権力には外部がないのだとすれば、つまりフーコーが主張するように、人や国家機関が権力に巻き込まれないまま権力を掌握したり遠隔操作したりするための足場となるような、権力を超えた場所は存在しないのだとすれば、権力自体の内部には、権力から逃れる可能性を否定するなにかが存在していなければならない。そして、この可能性を否定するなにかは、それ自体、否定不可能なものでなければならない。なぜなら、フーコーがつとめて明確にいおうとしているように、それを除去あるいは否定することは、権力自体の崩壊をまねくからである。言語あるいは象徴界のなかにあって、あらゆるメタ次元、あらゆるメタ言語の可能性を否定するもの---それがまさにラカンによる現実的なものの定義である。この除去不能な否定、象徴界の中心にある固い核によって、シニフィアンは自己分裂や自己言及を起こすことを余儀なくされる。というのも、メタ言語が存在しないとき、シニフィアンの意味作用は、他のシニフィアンを指示することによってしか成立しないからである。要するに、外部が形成されるのを避けたいときには、先にも述べたように否定を避けてはならない。》
《象徴界の内的な限界---すなわち、シニフィアンの無力状態---としての現実的なものは、象徴界とは別の場所があることを仮定するのではない。現実的なものとは、象徴界の上部あるいは外部に出る可能性をつぶす障害である。(略)権力を限界づけるのは、シニフィアンの場合と同様に、権力自身だけ、権力がみずからに課した無力状態だけである。そしてそのときのみ、主体は、権力の網の目から逃れられないながらも、権力に受動的に従属する者としてではなく、主体化する能力をもったものとして捉えられるようになる。というのも、主体は、権力の内的な限界の内部、権力の自己分裂を引き起こす必要最小限のギャップの内部に身を置くかぎりにおいて、規定され確定されたアイデンティティの強力な牽引力から自由になれるからである。まとめよう。権力には外部がない、それゆえ権力に抵抗するものもない、という言い方は正しくない。権力が、ただ権力だけが、権力に対して作用する---これがより正しい言い方である。権力は、みずからを抑制する力を持っているのだ。》