樫村晴香の講演を聞きに京都へ。新幹線といっても、小田原から各駅停車のこだまに乗ると京都まで三時間かかる。行きの新幹線のなかで、昨日ざっと読んだメイヤスー「形而上学とエクストロ-サイエンスフィクション」を熟読する。やはりすごくおもしろい。
ここでは科学の成立しない世界についてのフィクションの考察が行われているのだけど(それは哲学的には、充足因果律の問題を考えるついでの副産物にすぎないということなのかもしれないけど)、例えば、ポピュラーサイエンスの本を読んでいる限りでは、現在では物理学そのものがここで言われているエクストロ-サイエンスフィクションのような領域に入りかけているようにも思われる。理論が、実験や観察によって検証可能なものではなくなりつつあり(現在の技術では検証不可能、なのではなく、原理的に検証不可能という領域に入ってきている、という)、その正当性は、おそらく理論的な整合性(数学的な厳密さ、とか)によってのみ保証されている、ということになっているみたいな感じ。だとすれば、ミサイルがいきなり(偶然に)クジラに書き換わってしまうように、ある日とつぜん、まったく別の理屈に書き換えられてしまうこともあるかもしれない、ということを禁止できない(現実が数学に従うという保証はどこにもない)。だからもうそれは厳密には科学ではなくなっているかもしなない(そう言って警鐘を鳴らしている学者も多数いるみたいだし)。というか、そういうところへ踏み込まざるをえなくなっている、のではないか。そういう時代の哲学ということなのだろうなあ、と。
立命館大学樫村晴香講演。すごくおもしろかったけど、「伝説の樫村晴香降臨」みないな感じではなくて、淡々と、現在の自分の関心について語っているという感じだった。かつてのテキストのキレキレの感じとは違って、非常に柔らかく、様々な話題、様々なレベルを行き来しつつ、時にゆるくも語られるのだけど、しかしキレキレの感じが後退したことでいっそう、もともと樫村晴香が問題としていたことがはっきりと前景化しているように思われた。
例えば、ヨーロッパでは夕暮れの時間が長く、特に夏はなかなか日が暮れない、長い夕暮れの持続は宙づりの「期待」という感情と結びつき、それはあからさまに性的な感情で、セックスの前のような感覚だ(この夕暮れの時間の長さ、美しさが「画家」という存在をつくりだしたのだろう、とも言っていた)、対してアジアの熱帯では、日が余韻もなくストンと落ちて、それは既にセックスが終わった後のような感覚で、アジアの熱帯地方では常に、既にセックスの後のような時間の感覚がある、というようなことが言われる時、具体的な情景、性的情動、抽象的な思弁、の三者が、分けることの出来ない(しかし一見奇妙な)形の結びつきを形成し、故に要約や一般化が不可能な形となって、ある圧縮された思考−像が押し出される(そして、それが「時間」の作動と結びついている)、この感じが、ああ、樫村晴香だなあ、と思う。
(だから、ニーチェ永劫回帰は具体的な場面と切り離せないが、ドゥルーズはそれを平気で引き離して哲学の問題にしてしまう、というようなところに引っかかるのではないか。)
そして、このような異様とも言える、言語と感覚(情動)と時間との、切り結び(切断と接合)には、「倒錯」という機構がどうしたって関係しているはずだというのが、樫村さんの一貫した主張であるように思われる(現在――というか、ずっとずっと――進行中だという、スフィンクスオイディプスに関する仕事も、そこかかわってくるのではないだろうか)。そしてこの感覚は、やっぱりとてもクロソウスキーに近いように思われる。
例えば、「ドゥルーズのどこが間違っているか?」は、最初に読んだときは、書かれていることについてゆくのに精いっぱいでそんなこと思う余裕もなかったのだけど、もう十六、七年も繰り返し読んでいるとだんだん、樫村晴香はもともとドゥルーズにはあまり興味がなかったんじゃないかと思えてくる。だからこれはドゥルーズ批判でさえなくて――おそらく、ドゥルーズについて書いてくれと依頼されたから書いたということでしかないのではないか――むしろニーチェラカンを通じてのクロソウスキー論だとさえ言えるのではないかなどど思えてくるのだけど(ドゥルーズにはクロソウスキーが――つまり倒錯が――分かっていない、と言いたかっただけかもしれない、とか)、今日の話を聞いて、自分がそう考えていたことはそんなに外れてはいなかったのではないかとか思った。
ぼく自身としては多分、倒錯という感触が本当には分かっていないと思うのだが(故に樫村晴香につよく惹かれるということなのかもしれないのだが)、セザンヌを倒錯(視覚が言語の方からやってくる?)としてみるという話は示唆的だと思った(故にセザンヌに強く惹かれるのかもしれないのだが)。
セザンヌには「美」がなく、そして「視点」もない。そして倒錯的であるとする。一方、マティスにも同じく「視点」はない、しかし「美」はあると思う。視点がないということと、魂が二つあるということとは関係がある気がする。この、セザンヌマティスとの、近くて遠い関係が、ぼくにとってはすごく問題なのだった。いや、これは樫村さんの話とは関係ないけど。