ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』(2)

(昨日のつづき、ジム・ジャームッシュブロークン・フラワーズ』について。)
●『ブロークン・フラワーズ』は、まるでそれを意識したかのように、ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』との共通点が多い。主人公が、人がうらやむような成功した中年の男性であること(女性にもとてもモテること)。しかし当人としては、人生の深刻な行き詰まり(危機)に直面していること。そのような局面で、過去に関係した女性を訪ねることになること。ノスタルジックとも言えるその旅はしかし、実際には自分の過去というよりもむしろ「アメリカの現在」を浮かび上がらせてしまうこと。(男性の旅=移動によって、「アメリカの現在」の風景がたちあがること。)そしてその「旅」が、それまで主人公が全く意識したこともなかった、自らの「息子」の存在をめぐるものでもあること。こうしてみると、物語の大きな外枠は、ぴったりと重なっているとさえ言える。このそっくりな二作を比べてみると、ジャームッシュがいかに洗練された演出家であるか、逆に、ヴェンダースがいかに、演出家として野暮ったくて不器用であるかが浮き彫りになる。例えば、この両作は共に、主人公の移動によってたちあがる「風景」が作品を支えているといえる。(つまり主人公は、何かしら行為する者ではなく、移動する視線のようなものに近い。)この時、ジャームッシュは、ビル・マーレイという独自の雰囲気をもつ俳優を主人公に使って一定の存在感を示しつつも、彼を徹底して受動的な人物として設定することで(彼の旅は自らの意思でなされるのではなく、おせっかいな隣人に無理矢理に促されてなされる)、彼が見る「風景(過去の女たちの現在)」の方を鮮やかに際立たせる。彼が能動的に行動しはじめるのは、最後の女性を訪ねた時に殴られた後からである。(殴られた後のビル・マーレイは、その「殴られた顔」も含め、とても素晴らしい。)対してヴェンダースは、サム・シェパードに最初から悩みの深い実存や孤独感を強調させる。しかし『アメリカ、家族のいる風景』は初期のロードムービーとは異なり、風景は主人公の孤独と重なるのではなく、あくまでも「女たち」の方に属するので、主人公の悩みっぷりはそれを支えるものがないので薄っぺらく浮いてしまい、ただ鬱陶しいだけということになってしまう。あるいは、「息子」との対面においてもそれは顕著に現れている。『アメリカ、家族のいる風景』の、主人公と息子の対面とその和解の描かれ方は、あまりに紋切り型で深みを欠き、シーンの演出としても成功しているとは思えない?対して『ブロークン・フラワーズ』では、息子との対面(互いに意識しつつ、しかし核心に直接は触れないまま会話がなされるシーンを、珈琲屋の裏の絶妙なロケーションで示す)を見事に演出しつつ、さらにその後、それを足払いにかけるようにきれいにひっくりかえして、映画の幕を閉じる。しかしだからといって、『ブロークン・フラワーズ』の方が『アメリカ、家族のいる風景』よりも作品として優れている、ということに簡単にはならない。
昨日書いたことと関係するのだが、『ブロークン・フラワーズ』で非常に見事に描かれるこの物語を、ジャームッシュはどこまで本気で信用しているのか、あるいは、どこまで本気でこの物語を必要としているのかが、あまり見えてはこないのだ。つまり、何故ジャームッシュが他のものではなく、わざわざ「この物語」を選んで映画をつくったのかがよく分からないのだ。『ブロークン・フラワーズ』で主人公が訪ねる四人の女性をめぐる四つの風景は、典型的な「現代のアメリカ」(の病理)を示す見事な四つのサンプルではあっても、それ以上のものとは思えない。(例えば『アメリカ、家族のいる風景』のヴェンダースは、不器用なやり方ではあっても、彼にしか捉えられないような「風景」を、そこに住む人たちの生活と釣り合うだけの深みや重みとともに捉えることには成功しているように思う。)そこで交わされる会話、過去につき合った女性との間に流れる言語化できないような微妙な緊張を孕んだ空気(その場には必ず第三者がいて、二人きりにはなれないこと等)の演出、それぞれの女性のキャスティングの面白さなど、それぞれのシーンは全く素晴らしいのだ。しかし、それらが集まって一つの流れとなると、全体として現代アメリカの良く出来たカリカチュアでしかないようにまとめられてしまうのだ。何故か、個々のシーンの個別の良さ(強さ)よりも、それらを外側から規定する「(適度に良く出来た)物語」の方が強く感じられてしまうのだ。(前作の『コーヒー&シガレッツ』は、一つのエピソードを一つのシーンだけに限定することを徹底し、それを複数ただ重ねることによって、彼自身の資質にきわめて忠実な作品になっていると思う。)
●『ブロークン・フラワーズ』は、それなりに気の効いた、良く出来た物語であるのだが、同時に、「物語」など信用するな、というメッセージも含まれている。この映画は誰が見ても分かるように「ピンク」に貫かれている。ピンクは、この映画の「謎」に迫る真実の徴候であるかのごとく(わざとらしく)示されている。しかしここにこそ人間の思考(物語)の陥りがちな罠がある。そのことを典型的に示すのが、主人公の隣に住む(とても善良な、良い奴ではある)ミステリ・マニアの存在だろう。主人公の「息子」の存在を仄めかす手紙が、ピンクの封筒、ピンクの便せんによって届いたからと言って、それを出した女性の身の回りにピンクの物があるという保証はどこにもない。逆に、女性がピンクのバスローブを着ていたり、ピンクの名刺を使用していたりしても、そのこととピンクの手紙とが関係する保証もどこにもない。ましてや、若い男性旅行者のリュックにピンクのリボンが巻き付けられていたからといって、それが「息子」である徴だなどと考えるのは、妄想以外のなにものでもない。にも関わらず人はしばしば、そのような徴候の短絡的な結びつきによって思考してしまうし、それに強い説得力(「運命」のようなもの)を感じてしまう。このような、ピンク=徴候の短絡的連鎖が、物語に「謎」を付与し、物語が物語として閉じることを可能にする。ピンクが何かの徴候であるように感じられるのは、その色が比較的目立つからであり、そして映画が視覚によって何かを提示するメディアであるという都合による。つまりそれはあくまで「物語」の都合であって「世界」の都合ではない。(封筒のピンクとリポンのピンクとは「同じ効果」を持つ物ではあっても、「同じ由来(出自)」を持つものとは限らない。)この映画でジャームッシュは、ピンクを意図的に疑似餌のようにバラ巻いているのであって、決して真実や運命の徴候として使用しているのではないところに、彼のクールさがあるとは言える。(このことをジャームッシュは、息子(かもしれない人物)との会話の後で、「ピンク」とは全く別種の「徴候」を見せつけることで暴露して、映画を終わらせる。)この疑似餌は、映画のなかである程度は効率的に作用するだろう。しかし、ジャームッシュは決してヒッチコックのような作家ではないのだから、こういう疑似餌を「技法」として採用することは、作品を弱くすることにしかならないのではないかとぼくは思う。
●あえていえば『ブロークン・フラワーズ』は、過去へと向かおうとする視線が、記憶の深さに沈み込んでゆくことが許されずに、薄っぺらな現代へと常に突き返され、その表面を視線がなぞることしか許されない、現代のアメリカという環境の「生きづらさ」の気分こそが基調にあり、ジム・ジャームッシュにとってのリアリティ(この「物語」の必然性)は、そこのところにこそあると言えるかもしれない。それにしも、『ブロークン・フラワーズ』にしても、『アメリカ、家族のいる風景』にしても、これらの映画を見ると、アメリカで生活するのって、本当に辛そうだなあ、と思う。