「季刊思潮」の荒川修作

●「季刊思潮」という雑誌(「批評空間」の前身)の1号(1988年発行)に、確か荒川修作の講演の記事が載っていたはずだとふと思い出して、本棚から引っ張り出して読んでみたらやたらと面白い。『建築する身体』や『生命の建築』よりもかなり分かりやすく(?)、面白く、荒川氏の考えが述べられていた。以下、メモとして引用する。
●新生児の知覚、について。
《まず、最初に考えられることは、我々の、メモリーのアイディアですね。我々がこの世に生まれてきて一番最初に叫んだ言葉、叫んだ声。あれがなかったら我々はいまここに居ないわけです。あの言葉が発生する条件というか、場というのは、何であるか。あれがおそらく我々の道徳の原点です。僕はあれを何とかして構築しようとしたわけです。あれが構築できれば、我々はいま使っているであろう、この世界の道徳についてどこが悪いか、いいかをはっきりさせられるわけです。それがはっきりしたら、目にはみえないけど我々人間よりももっと素晴らしいものがあることが分かるのではないか。生きるとか、人生とか、そういう言葉はいらないんじゃないか。そういうことをはっきりさせるためには、あの一番最初の言葉が、情動的であれ理論的であれ,何であれ発生するあの場所が構築されない限り、何も解決できないはずだろうと僕は思います。》
《そうすると、こんなこと考えてみたらどうですか。現在我々が使っている道徳と、生まれたての赤ちゃんとの関係---一体そういうものが成り立つのかと。一体誰が成り立たせるのか。お母さんの手、お医者さんの言葉、病院にいる看護婦さんの何か、そういうものがその環境を成り立たせているわけです。でも我々が成人した暁にはもうあれは、あの手とかはないわけです。そうすると、我々が一番最初に恐怖したり、感動しなくちゃいけないのは、我々がここに生きていて、死んでゆくということではなく、一度そういう経験があったことを忘れてしまったことに、本当は恐怖したり、感動したりしなくちゃいけない。そのような仕組みが、この生物体にはある。》
《もっとはっきり言えば、僕の一言によって何万人という赤ちゃんがギャーギャー言っているわけですよ。この空気中で。ただ声が聞こえないだけです。》
●物語、ではなく、構築、を。
《だからこそいまはもう物語の時代じゃないんだ、物語の時代じゃないからこそ、おそらくカラオケが流行ってるんだよ、日本では。あれは同じことを繰り返すことだろ? ある不思議な状況でもう物語はいりませんよってことを言ってるんだ。あの人達は。あれがふつうの知識人にもできるのは、案外知性的な行為だからだよ(笑)》
《Maker、作る人が毎秒死んでいるとしたら、一体作られているものは、誰によって作られるのか、とレオナルド・ダ・ヴィンチが言ったんですけれど、これこそ、次に本題に入ろうとしていたことです。》《一九六二年に、ある大学の先生から「荒川君、もし君のお父さんやお母さんがいなかったら、この世にいますか?」って言われた時、僕は即座に「勿論います」って言ったわけだ。何がそうさせたのか。それについて僕は真剣に考えて、それでたまたまそのレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を見つけたわけだ。》《彼がそれを書いている間に、もしこんなに死を恐怖するんだったら、それについてだけ一所懸命毎日仕事をしたら、ひょっとしたら安楽死することができるかもしれない、ということを、この前に彼は書いているわけだ。そしてとうとう、本当に死んでるってことは、毎秒私は死んでるんだってことが分かったわけだ、彼は。そうと知ったらどうしてそんな死なんか恐れることが必要か。それでも私は恐れてるって言ってるわけだ。そうするとおかしなことが起きるんだ。毎秒死んでる私を動かしてるものは何だ? それこそマルクスが真剣になった隣人に食わせることだよ、完璧に。私は食わないで、隣人を完璧なものにすることだよ。そこに初めて、物語でもない、思想だけでもない構築っていうものが必要になってくる。これは物語じゃないんだ。構築されてんだ、毎秒。そしてその構築は毎秒死んでるんだ。もっと言うと誰かが壊してるんだ。》
●サイズについて。(物語、思考、と、構築とのちがい。)
《もう一つの問題にサイズの問題があります。サイズ。ひょっとすると、僕が今日言った中で一番大切なことだ。一体、僕達が大きいとか小さいとか言うのは自分の体に対して言うのか、自分のイメージに対して言うのか、自分の習慣や趣味に対して言うのか.....。それすらもほとんどの人は知らないでいると思う。どうして僕達は、簡単に蚊とか何かを殺したりできるのか。あれが僕達と同じ大きさで日本語が出来たらどうするか、と思ってもいいですよ。蟻が向こうから僕の前へ来たら、僕と同じ大きさになって「コンニチワ」と言ったとしましょう。構築っていうのはそれに近い。物語はそういうことがありましたって語るだけ。思想もそういうことがありますよってことだ。構築はそうじゃない。そういうのが前に本当に出てきちゃったんだ。しかも「コンニチワ」って言われてみたら、蟻の顔をしているわけだ。そいつを見てみたら、その辺りをスーと行くわけだ。》