「季刊思潮」の荒川修作(2)

●昨日の荒川修作の引用は、いきなりそれだけ読むと、支離滅裂で、「頭のおかしい人」が喋っているように感じられるかもしれないけど、荒川氏の作品や発言に対して一定の関心を持続させている人ならば、余計な装い(例えば認知科学的な語彙だとか)が紛れ込んでいない分、荒川氏の探求の核心が、素朴に率直な言葉で語られているのが感じられると思う。(荒川氏の発言が、疑似科学的、時に疑似宗教的な色調を帯びるのは、荒川氏がもくろむ構築=建築には莫大なお金が必要で、それを得るために多くの他者を説得する必要がある、というところから発しているように思える。他人を説得するために必要とされ、組織される言葉が、結果としてものごとを必要以上にややこしく感じさせ、その行為に秘教的な色調を帯びさせ、かえってその核心をみえにくくしてしまう、という皮肉があるように思う。)
「季刊思潮」の同じ号に載っている、甲野善紀のインタビューも、荒川氏の発言と関係があるように思う。というより、この甲野氏の発言の方が、荒川氏の発言よりもずっと親切な「荒川作品」の解説(というかヒント)になっているように読める。甲野氏は、何故、柔道や合気道のようなものではなく、「道具」を使う武道へ興味をもったのかについて喋っている。
《つまり、道具を使いこなすということは、手や腕の筋肉がエネルギー源として使われるのではなくて、非常に微妙な操作をするためのセンサーの機能と、操縦性が重要になるわけです。そして背中や足腰のほうを動力源として使います。ところが、柔道などの場合は、どうしても手や腕で掴むことそれ自体にエネルギーを使ってしまうため筋肉を微妙なセンサーとしてはなかなか使えないわけです。それが、道具を使うとなると、その道具を使いこなすということに意識がいくため、つまり、間にものが入ったために、むしろ、かえって身体の動きが能率的になってくるということです。なぜ、道具を使うと動きが能率的になるかというと、動きが限定されることで、一つのシステムが育ってくるからだと思います。》
《道具を使わない一般の合気道の場合、一番の問題点というのは、技がかからない時に、自分のどこがまずくて技がかからないのか、それがなかなかわからないということです。それは道具を使わない体術では、自由に、というかいろいろな動きが出るために、要素が非常に多くなり、フィード・バックによる学習効果があがりにくいということです。たとえて言えば、射撃の練習をするのに、一発ごとに違った種類の銃を使っているようなもので、しょっちゅう情報が変わることで因果関係がわからなくなってしまうのです。》
《道具を使うことで、知的なといいますか、大脳の介在する巾が広くなるようです。つまり一つの方程式、構造式というか身体の動きの複雑な式が出来てくるようです。ですから実際に体を使わなくても、電車に乗って頭のなかで考えているだけでも、一つの動きから技へと発展できるようになってきます。》《体の確かな体感を通してイメージを有機的に組み上げることが出来るようになるのだと思います。それが体術だけだと、どうしても体から離れて検討することが出来にくいようです。》(インタビュー「いまなぜ武術なのか」構成/市川浩)