小島信夫『各務ケ原・名古屋・国立』

小島信夫『各務ケ原・名古屋・国立』。読むのに一週間以上もかかってしまった。何故、小島信夫の小説は、こんなに読むのに時間がかかり、労力がかかるのだろうか。そして、苦労して読み終えても、「読み終えた」という手応えのようなものはあまりない。しかし、この不思議な感覚には独自のものがある。おそらく、この小説の読みにくさは、あらゆる細部がほぼ同じくらいの強さ、同じくらいの重要性をもっているからことからくるのではないだろうか。物語の緩急にあわせて、ギュッと充実したところと、気楽に流せるところとの落差によるリズムがあるわけではなく、文脈や構造をある程度予測しつつ、その流れのなかで(全体との関係によって)細部の意味を読むことが出来るわけではない。しかし、かといって決して単調なわけでもフラットなわけでもなく、それぞれの部分が、それぞれに異なる質を持ち、異なる意味を担い、異なる「世界からの出自」を持っているようにみえる。事実、単調であるどころか、読んでいると、記述の飛躍について行くために頭が過剰に働くことを強いられ、だから時に頭がフリーズしてしまって、全く前に進めなくなることがある。この小説を読んでいて退屈に感じる時は、小説の記述が作品として弛緩していたり、流れが澱んでいたりするのではなくて、たんにそこに「書かれている事柄」が、ぼくにとって興味が感じられない事柄である(その部分に対する「触れ方」がよく分からない)時なのだ。逆に言えば、惹き付けられるところは、作品のクライマックスとか特に充実した部分というわけではなく、たんに読者であるぼくにとって、書かれていることが興味深い部分であるのだ。つまり、この小説ではそれぞれの細部があるばかりで、全体(への予感)のようなものを、細部を読んでいる時に先取り的に把握することが出来ない。(実は、全て読み終わった後でも、全体の輪郭を明確には掴めない。)だから、個々の細部をいちいち、一つ一つ引っかかるように読み進んでゆくしかない。(「構造」のようなものを掴もうとして読むと、混乱するばかりだ。「講演」の記録のように書き出されても、それがいつの間にかずるずると、どうでもよくなってしまう。)例えば、私小説とか身辺雑記とかいうものは、実は「私小説」「身辺雑記」という形式(という言い方が大げさならば、「何となくそんなイメージ」)が前もってあって、それに合わせるようにして書かれ、あるいは、それからどの程度逸脱するかの距離を測りつつ、書かれるのだろう。しかしこの小説は、そのようなものとは全く別の書き方がされているようにみえる。小島信夫は、ひとつの作品=全体という考え方をしていないから、ひとつの作品のなかで何を解決したり、回収したりしようとしていないように思う。だから、この小説の読みにくさは、人が(というか、ぼくが)、文章を読んで行く時、いかに全体(文脈)のようなものの存在をアテにして、それを頼りに(そこから遡行して)個々の部分を読んでしまっているのだということを逆に照射する。
●この小説では、多くのことが語られている。(いくつか例を挙げようと思ったのだが、切りがなくなってしまうので、やめた。)これらの様々なことがら相互の関係は、何となく繋がりが見えるものもあれば、何故ここでこの話が出て来るのかよく分からないところもある。小島氏は種をまくばかりで、それを刈り取ったり編み上げたりしようとはしていなくて(それらが勝手に育って勝手に絡み合うのを待っているばかりのようで)、取りようによっては、書きっぱなし、言いっぱなしで放り出しているだけのようにもみえるかもしれない。つまりここで書かれる様々な事柄は、作品の内部で相互に緊密な関係を生じさせたり、作品として何かが解決されたり、ということは目指されていないように思われる。何かと別の何かとが響き合い、あるいは何かが発展したり、解決したりするとすれば、それは作品の「外側」で起こることなのだ。作品が作品として完結するのではなく、世界の方へと預けられている、といえばよいか。小説が、テキストの次元でも、作者の次元でも、読者の次元でも、解決しない。だから読み終わっても、読み終わった気があまりしない。
●日々、記憶を失いつつある妻のアイコさんに、年老いた作家であるノブオは、彼女の過去について、折に触れて何度も、彼女に話して聞かせる。(アイコさんの年表までつくる。)アイコさんは、その都度、はじめて聞いた話であるかのように、その話を新鮮に驚く。その行為によって、記憶に障害があらわれる前よりも、夫婦の関係は緊密になり、家のなかは以前よりも明るい感じにさえなる。夫の話を聞くアイコさんは、何度も、次のようなことを言う。「あなたって、よくおぼえているのね、どうしてそんなにおぼえていられるの。とくべつおぼえるようにしているのね、きっと」このような言葉が(発話する当人としてはその都度はじめて言ったかのように)何度か反復されるのを読む時、ぼくのなかには何とも言えない感情が生起する。なんだかんだ言って、このような部分こそが、この小説を支えているのかもしれない、とも思う。