「InterCommunicaton」の郡司・保坂対談より引用

●「InterCommunicaton」の郡司ペギオ-幸夫保坂和志、対談より引用。郡司氏の発言。『カンバセイション・ピース』における、デジャヴとお化けについて。
《僕はデジャヴというのは、抑圧されたAha ! 体験みたいなものだと思うんですね。まず、デジャヴに多く伴われる懐かしさについて考えてみます。ノスタルジーを感じる時というのは、視覚的な映像よりも、音とか匂い、しかも形容しがたいコーヒーのような匂いとか、そういう何とも言えないような、一見すると抽象化・言語化できそうもない、より原始的な、生のまるごとの断片からこそ、懐かしさそれ自体、臨場感それ自体が、ぐわーっと浮かび上がってくるようなことってありますよね。》
《つまり、匂いの分子が一個一個バラバラなっていて、そのバラバラを統合し、押さえつける一つの印象が言葉としてないにもかかわらず、他方、それをある種の抽象的な個物として、タイプとして押さえつけようとする運動がある。一方は動物的、原始的なバラバラな分子で、他方は人間的な言語による抽象で、それらが両義的に共立し、齟齬を含んだまま調停されてしまうダイナミックな一瞬において、ノスタルジーが個物として。リアリティとして立ち上がってくるという感じだと思うんですね。》
《デジャヴというのはまさにそういうものでしょう。バラバラのモノそのもの、トークンというような概念と抽象的なタイプというようなものがあって、この二つはどうしようもないくらい別種の概念装置で、その二つがある種調停されないと何かが立ち上がってこない。ただしそれは統合され、一個のモノが出現する、そういったことではない。齟齬と共立、でありながら、決して破壊ではないありようですね。どうしようもないこの両義性は、今はこっち、さっきはあっちというふうにスイッチを切り替えて成立するものではないし、齟齬をきたすものでありながら共立しなければならない。で、これを押さえつけるフレームする私というのがいるんだけど、もはや盤石な私ではどうしようもない。その時、押さえつけられないがゆえに、フレーム=私、がグラデーションのように消えかかり無効にされ、それによって何かもっとフレームの外側にあるものの助けを結果的に借りられる。そういう感じだと思うんです。》
《デジャヴの場合には、抽象的なものとトークンみたいなもの、目の前に居る一個の顔と抽象的な類似性そのものみたいな親類の顔のバッティングと共立があった。それに対して、お化けみたいなものは時間的な齟齬ですよね。過去の私と今の私みたいなものの、どうしようもない齟齬と共立が、あるリアリティを個物化し、立ち上がって来る。齟齬と共立が統合されるのではなく、齟齬を内在したまま個物化されるからこそ、それは空間=お化けの出るあるスケールをもった広がり=風呂場のリアリティを立ち上げ、同時に、風呂場にいる影=お化けのリアリティを立ち上げる。だから、デジャヴとお化けの二つは似ていると思うんですね。基本的には徹底して異なる概念装置、一緒にすると齟齬をきたすようなものが共存して、それを押さえつけるべく自明なはずの「私」が解体されて、外部を憑依し、存在とかリアリティが立ち上がってくる。この描像は、齟齬するもの、例えば「今の私」と「今ではない(過去の)私」を統合し、両者を等式で結んで、矛盾を超越論的に克服するというのとは違います。外部が否定操作自体によって否定され、直接個物化されるということではない。齟齬をきたす二つの概念装置のフレームが解体されること、意味が徹底して剥奪されること、それこそが外部を憑依する装置となるという点が重要な論点です。》
●この対談の郡司氏の話を読んでいて、ぼくはずっと荒川修作との関連を考えていた。例えば、郡司氏が保坂氏の『カンバセイション・ピース』の「お化け」について言及している部分を読みながら、以下の荒川氏の発言のことを思い出していた。
《もう一つの問題にサイズの問題があります。サイズ。ひょっとすると、僕が今日言った中で一番大切なことだ。一体、僕達が大きいとか小さいとか言うのは自分の体に対して言うのか、自分のイメージに対して言うのか、自分の習慣や趣味に対して言うのか.....。それすらもほとんどの人は知らないでいると思う。どうして僕達は、簡単に蚊とか何かを殺したりできるのか。あれが僕達と同じ大きさで日本語が出来たらどうするか、と思ってもいいですよ。蟻が向こうから僕の前へ来たら、僕と同じ大きさになって「コンニチワ」と言ったとしましょう。構築っていうのはそれに近い。物語はそういうことがありましたって語るだけ。思想もそういうことがありますよってことだ。構築はそうじゃない。そういうのが前に本当に出てきちゃったんだ。しかも「コンニチワ」って言われてみたら、蟻の顔をしているわけだ。そいつを見てみたら、その辺りをスーと行くわけだ。》(「季刊思潮」1号)
●あるいは、郡司氏の生命(生と死)についてのイメージと、荒川氏の、瞬間ごとに死んでいる生というイメージ。まず郡司氏の発言。
《それに関しては、さっきのフレームしている私が解体して外部をかき取るというとちょっと語弊があるかもしれないですげと、そういったかたちで死の中に、要するに死も外部なわけですけれど、死の中に生命があって、生命は絶えず死を内在させているというような、死と生が対極にあって生きていても死のことを常に思えというような生ではない生ですね。》
《しかもその共立がうまくいかない時に、その二つのものをつなぎ留めようとする枠組み自体がダメージを受け、半分死んでいるというかたちでしか生きていられない----生きているということは、そういうことだと思うんです。その時に、今を押さえこむ、壊れかけている枠組みの、その外側がないと、もはやシステムやリアリティが成立しないみたいな、そういうかたちになっている。神というものを取り除いて括弧を空欄にしてやっても、その空欄に存在するとか、以前に死んだ猫たちが歌を聞いているとか、一見おかしな話に聞こえるけど、通常の時間や、存在/不在の通常の区別なんかは、自明生を維持する枠組みの内部の話で、時間はそのなかで絶えず更新しているみたいな感じですけども、それは時間をつくりつつ時間のなかで生きているから過去において猫がいて、今はいないというかたちになりますけど、その外側も含めたかたちでリアリティやら存在やらが立ち上がっているということは理解しうる。この時はじめて、植物も死んだ猫も歌を聞いているという感覚が出てくると思うんですね。》
荒川氏の発言。
《Maker、作る人が毎秒死んでいるとしたら、一体作られているものは、誰によって作られるのか、とレオナルド・ダ・ヴィンチが言ったんですけれど、これこそ、次に本題に入ろうとしていたことです。》《一九六二年に、ある大学の先生から「荒川君、もし君のお父さんやお母さんがいなかったら、この世にいますか?」って言われた時、僕は即座に「勿論います」って言ったわけだ。何がそうさせたのか。それについて僕は真剣に考えて、それでたまたまそのレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を見つけたわけだ。》《彼がそれを書いている間に、もしこんなに死を恐怖するんだったら、それについてだけ一所懸命毎日仕事をしたら、ひょっとしたら安楽死することができるかもしれない、ということを、この前に彼は書いているわけだ。そしてとうとう、本当に死んでるってことは、毎秒私は死んでるんだってことが分かったわけだ、彼は。そうと知ったらどうしてそんな死なんか恐れることが必要か。それでも私は恐れてるって言ってるわけだ。そうするとおかしなことが起きるんだ。毎秒死んでる私を動かしてるものは何だ? それこそマルクスが真剣になった隣人に食わせることだよ、完璧に。私は食わないで、隣人を完璧なものにすることだよ。そこに初めて、物語でもない、思想だけでもない構築っていうものが必要になってくる。これは物語じゃないんだ。構築されてんだ、毎秒。そしてその構築は毎秒死んでるんだ。もっと言うと誰かが壊してるんだ。》(「季刊思潮」1号)
●郡司氏はなんと、デジャヴを人工的につくる装置を開発しようとしているらしい。この点でもまた、荒川修作を思わせる。しかし面白いのはそのサイズで、保坂氏が、それはゴーグルくらいのサイズなのか、それとも瞑想タンクのように身体を包むような大きさなのか、と聞いたところ、「パソコン程度のもの」でやろうとしていると応えている。荒川氏が、建築とか、果てには都市をつくるというような巨大サイズを構想しているのに対して、「パソコン程度」という中途半端なサイズであることがまた面白い。