●お知らせ。明日、6日発売の「群像」11月号に「セザンヌの犬」という短編小説が掲載されます。
http://gunzo.kodansha.co.jp/10050/18190.html
9月18日の日記にもちらっと書きましたが、この小説の出発点となったのは郡司ペギオ-幸夫による「内側からみた偶然=仏陀の微笑」というエッセイです。というか、郡司さんがオットー・レスラーという学者を訪ねた時の、下に引用する場面が、「セザンヌの犬」の冒頭場面と重なっています。
≪ホテルまでタクシーで送ってくれたレスラーは、帰りはバスで帰ると、バス停まで歩き出した。20mほど歩いては振り返って両の腕を大きく振り、これを見えなくなるまで何度も繰り返していた。その光景もまたレスラー言う所の仏陀の微笑であった。果たして我々はいかにして仏陀の微笑を実感し、開設するか。≫(「内側からみた偶然=仏陀の微笑」)
この文章はそのまま、小説の要約になっている気がします。改めて読み返してみると、思っていた以上に影響されている…。
仏陀の微笑は、偶然と必然をどのような形で渾然一体と実装するか。偶然の全体を分布として眺めるなら、偶然と実現された結果としての必然とは、全体と部分という関係となる。このような混同は、猫一般と目の前の三毛猫のいずれがかわいいかを比較するような、レベルの混同を意味する。それは一見馬鹿げたことに思える。しかし、我々はまさに目の前の異性と異性の理想像を比較するようなことを日々行っているではないか。普遍と個物の混同を「いま・ここ」において絶えず実現している。「いま・ここ」こそが、レスラーの言う、仏陀の微笑そのものといえる。
可能性(偶然)と実現される個物(必然)を仏陀の微笑とするとき、可能性の束自体が実現される個物であることを認めざるを得ない。複数の可能性が同時に成立すること、それが可能性の束としての実現される個物である。それは相互予期を示唆するものだ。≫(「内側からみた偶然=仏陀の微笑」)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/bookfair/prpjn67.html