●新宿の紀伊国屋でやっているらしい郡司ペギオ‐幸夫の選書フェア(坂根正行さんのブログで知った)のために書かれた「内側から観た偶然=仏陀の微笑」というエッセイがすごく面白い。
http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn67.html
ぼくも、ちょうどここのところ、毎日ずっと「二人称」について考えていたので、ちょっとびっくりした。世界の根源的な「二人称性」について。
≪私はレスラーに聞いてみた。毎朝わたしが覚醒すると世界が立ちあがる。世界としての、唯一無二のわたしのモデルを、同時に世界の中に見出そうとするなら、それは目の前の他者でしかあり得ない。赤ん坊はこうして、母親を「わたし=世界」のモデルとして採用するだろう。このとき他者は、唯一無二のわたしであると同時に、他のだれでもあり得るという複数性を担うこととなる。それは複数性の肯定による社会性の肯定であると同時に、一者に矛盾する他人の存在を否定するものでもある。邪悪の起源とでもいうべきものが、実は内在しているのではないか、と。
 レスラーはこう答えた。一者であり社会でもある母親の顔、それこそが仏陀の微笑である。仏陀の微笑は、母親だけではない。それは世界の至るところにあふれる媒介者である。≫
一人称対三人称ではなく、あくまで二人称を根源とすること。ここで仏陀の微笑と言われている「世界の根源的な二人称性」は、おそらく二十世紀の精神分析(哲学化されたそれではなく、特にメラニー・クラインなど)が詳細に記述してきたものと同様のものだと思われる(精神分析は一対一で行われる)。しかしここではそれを、人間にとっての世界だけでなく、自然科学の対象においても見出すことができるというのだ。
≪実はわたしはここ2年ほど西表島ミナミコメツキガニの群れ行動を研究し、群れ行動の原動力に相互予期=潜在性の共鳴を実装する必要があると考え、モデルを考案した。潜在性の共鳴において、可能性をもたらす偶然は、群れとしての必然に積極的に寄与することとなる。それは必然と偶然が対立項を成し、両者のうまいバランスの上に現象する描像、カオス(偶然)と構造(必然)の臨界現象という描像とは、根本的に異なるものである。相互予期を実装したモデルにおいてはじめて、群れに一個の身体を見出すことができる。仏陀の微笑が自然科学の言葉で展開されるとき、我々はいよいよ新たな地平へと踏み出すことになるであろう。≫
相互予期によってあらわれる「群れ」というのは、二人称性の連鎖のようなものだとイメージしてよいのだろうか。そして、相互予期と「潜在性の共鳴」が「=」で結ばれるということについては、もうすこし詳しく書かれたものを読んでみないと…、とも思うのだが。
精神分析の理論では、世界の根底的な二人称性に対し、それに亀裂をいれて外に開く第三項(象徴的なもの)という概念が均衡的、対立的に併置される(ということになっている、例えばラカンには二つの象徴界があるとか、そんなに簡単なことではないとしても)。そして、このような形で展開する理論はもはやあまりにありふれてもいる(精神分析においては、第三項=象徴界は二人称性=想像界と併置されるのだが、単調な議論においてはしばしば、第三項がメタレベルとして上位に置かれてしまう)。と同時に、現代における第三項の成立の困難という話もまた、うんざりするほどありふれている(例えば工学的テクノロジーが、あるいは資本主義が、第三項を代替する、とか)。しかしここではあくまで「内側から観」るのであるから、第三項は「なし」でやるってことになるのだと思う。
郡司ペギオ-幸夫はくりかえし、タイプとトークンの混同の不可避性と、その動的な調停こそが生命の起源であると書いている(んだと思う)。タイプとトークンというレベルの違いが先にあって、それが混同されてしまうというより、常に混同が起っているということ、そして、そこにそれを調停する力が働くこと、その両者が起こっている(起こってしまう)という場こそが(常に繰り返される)世界の根源であり、その生成の力が事後的に両極化してタイプとトークンという二つの極に分化してゆく、と。そして、その生成の場を根拠づけるものが「媒介者」と呼ばれ、いわばそれが空項として第三項を代行している感じなのだと思っていたのだが、ここではその、生成の場に立ち上がってくる媒介者(その「しるし」)が「仏陀の微笑」としての「世界の根本的な二人称性」だということになって、ここもやっぱり「二」ということになるようなのだ(これは一見同義反復的にみえるが、同義反復であるはずのものがズレていって同義反復でなくなってしまう、というのが「時間」の実在性の根拠だったりする)。「三」つ目は(メタレベルは?)解体されてしまう。
正直、「それで本当に行けるの?」っていう疑問がないわけではないのだが、しかし、それでどこまでいけるものなのか、っていうその疑問がそのまま(もしかしたら…行けちゃうんじゃない、っていう形で)、何よりもぼく自身にとっての「希望」となってたち上がって返ってくる。
●郡司ペギオ−幸夫の新刊『生命壱号』はもってるけど全然読めてないのだが……。
●まったく関係ないが『ムネモシュネの娘たち』の最終話を観たら予想以上に下らなかった。これは悪い冗談ではないのか、というくらいに。「作品」において、整合性をつけること、あるは、言い訳をすること、が、いかに下らないか、しかし、そうしなければならないという強制力がいかに強力であるのか、を、改めて思った。そもそも、(最終話が下らないんじゃないかということはDVDのパッケージの「あらすじ」を読めば十分予想できたにもかかわらず)ここまで観たのだから最終話も一応観とかなければいけないんじゃないかという、ぼく自身の考え方が何より下らない。