●昨日ちらっと書いたウィニコットの話は、「二人称の思考」のモデルとして単純だし分かり易いと思うのでざっくりと書いておく。特に本を引っ張り出して参照したりしないで記憶で書くので、用語などはいい加減です。
完璧に良い母親とは、子供の欲求に少しもズレることなく同期してそれをかなえる存在。子供が空腹を感じるのと同時にミルクを与え、不快感を感じるのと同時におむつを替える。そんなことはありえないけど、そういうものとして想定する。そうすると、思ったと同時に思いが実現するので、子供は自分(の欲求)と世界の区別がつかない。自分=世界となって自分と世界とを分離することが出来なくなる。一方、完璧に悪い母親はその逆で、子供の欲求の発生とはまったく関係なく、自分の勝手に、ランダムにミルクを与え、おむつを替える。すると今度は、子供にとって自分(の欲求)と世界とがまったく同期せずに完全に分離してしまい、そこにつながりを見つけることができなくなる。世界は、自分とは無縁にずっと遠くにあるものとなる。ほどよく良い母親は、だいたいにおいて子供の欲求に合わせるけど、時間的にズレたり、時には無視したりする。すると子供は、ズレによって、自分と世界とを別物として分離して把握できるのと同時に、同期によって、世界に対し自分がなにかしらの形ではたらきかけることも可能だという繋がりを感じるようになる。つまり、きわめて常識的な世界観に着地できる。
(これは生物学的な認知機能の成長を無視した、いわば「世界観」の問題であるけど、しかし世界観とは、世界とはこのようなものだと描き込まれた図柄のことではなく、その図柄が書き込まれるための心の下地のことであり、認知されたものそのものではなく、それがそのように認知されるための下部構造のことだから、「意識」以前に刷り込まれてしまう。)
子供にとって最初の「あなた」(二人称)である存在の媒介によって、「わたし」(一人称)と「世界」(三人称)の基底的な配置が違ってしまう。勿論、「あなた」とは特定の誰かとは限らない。一人称と三人称が未分化である子供にとって、あらゆる人やものは皆、「あなた」としてあらわれる。つまり「あなた」とは実在する「母」のことだけではなく子供をとりまく状況のすべてだとも言える。二人称の思考(「あなた」)から考えれば、父性(象徴界)対母性(想像界)という対立は、「あなた」の二つの効果として解消できる。
●そして、そのような視点から一神教の強い超越性について考えたらどうなるだろう。とはいえ、ぼくの聖書や宗教についての知識は映画から得られたものだけがすべてであり、「にわか勉強」さえしていない者のまったく精度を欠いた粗い考えにすぎないのだが。
神の強い超越性は、アブラハムにおいてというよりモーゼにおいて確立したと言えるのではないか。そしてそれは、彼と彼の民が奴隷であったことと関係するのではないか。奴隷という、特別に困難な状況を生きざるを得なかったことが、強い超越性を必要としたのではないか。彼らが「希望」を持てるためには、神はとびぬけて強くなければならない。強大なエジプトの神を倒す(包摂する)ほどに強く(大きく)なければならない。しかし、そのような大きな力を持つ神が、自分たちに都合良く言う事を聞いてくれてばかりいるとしたら、それは現実とあまりにもかけ離れていて、ファンタジーとなり、リアリティがなくなる。リアルでないものを空想することは出来ても信仰することは出来ない(リアルでなければ「世界観」とはならない)。極めて困難で過酷である現状と、それでも必要である希望とを両立させるために、一方で、完璧に良い母のように大きな力とスケールを持ち、しかしもう一方で、完璧に悪い母親のように、民に理不尽に厳しい法を課し、理不尽に過酷な試練を課す、という、両極端をあわせもつ神が必要とされたのではないだろうか。神の、度を越えた大きさと理不尽さは、彼らが置かれていた状況の度を越えた困難さの表現でもあるのではないか。
神の巨大さ(包括性)、強大さ、両極端性は、彼らの置かれた状況の過酷さと釣り合うためものであり、また、彼らを支配していたエジプトの巨大さ強大さに抵抗するためのものでもあっただろう。強い求心性(エジプト、莫大なイメージと物質の充溢)に抗する、別の強い求心性(反イメージ、反物質としての強い法、象徴性と超越性)。しかしその度を越えた(中間-媒介のない)極端さは、神話の思考(二人称の思考)のリミットをふり切ってしまい、思考の流動的な運動を停止させ、極端を極端なままでフィックスさせてしまうとも考えられるのではないか。あえて嫌な言い方をすれば、強大な力(国家)に抗するための別の強大な力は、抗するものと相補的(反転的な似姿)になってしまう傾向があるとも言えるのではないか。
それが、一方で主観(魂)に過剰に重きが置かれ(完璧に良い母がもたらす世界との過剰な一体感)、もう一方で、そこから完全に切り離されて「操作対象」となった世界(客観・自然・物質、そして他者)がある(それは、到達不可能な「もの自体」でもあるので、完璧に悪い母のもたらす世界との過剰な分離)、という、完璧に良い母と完璧に悪い母の効果が合わさったような(中間-媒介の欠如した)世界観が生まれることを許す余地となった、と考えることもできるのではないか。