2024-09-04

⚫︎思いつきのメモ。

⚫︎正義は好感度ではない。正義はいつも、気に食わない、面倒臭い、不快で、クソ忌々しいものとしてしか現れないだろう(「正義」はいつも気に障る屁理屈だ)。だから正義は嫌われて当然だ。みんながなんとなく、なあなあにして、いい話として気持ちよく収めようとするものの中に隠された「抑圧されたもの」をわざわざ掘り起こす。好感度の高いあの人が糾弾されるかもしれない。せっかく盛り上がっていた場はしらけるし、みんな気分が悪くなる。しかし、それによって初めて救われるもの(それによってしか救われないもの)がある。

⚫︎しかし、「正義」とはどこまで行っても、制度のあり方や手続きの正当性の問題であって、もちろんそれは、誰もそこから逃れられない重要な問題だが、それだけでは「このわたしの魂」の問題にまでは踏み込めない。

⚫︎右翼が強いのは、政治や正義の問題と魂の問題が直結している(少なくとも、そのようにみえる)からではないか。だが、まさにそこが「危険」なのだと感じる。左翼は、正義の問題と魂の問題をとりあえず切り離して考えるだろう(正義が魂のあり方にまで食い込んでしまうことを抑制する、正義は公の領域だが、魂はわたしの領域だ、と)。そこは健全だと思う。しかしだからこそ、左翼が政治や正義の問題をいくら追求しても、魂にまで届かない。

⚫︎たとえば、「正義の実現ために一生を捧げようとする魂」は、「正義」からは出てこない。それは(公的な)正義の問題ではなく、(わたしの)魂の問題だ。

⚫︎とはいえ、人類学などをみると、公の領域と魂の領域は決して切り分けられないということになっている。このこともまた肝に銘じておかなければならない。

⚫︎たまたま「小説」をやるから、「小説にしかできないこと」を駆使することになるのだが、別に「小説にしかできないこと」をやるために「小説」をやるわけではない。「小説にしかできないこと」は手段であって、目的じゃない、というのか。あるいは、「小説」は手段であって目的ではない。

小説というジャンルの歴史性というのはあるし、それは自分一人の力で勝手にどうこうできるものではない。ある程度はそれに乗っかるしかない(人は誰でも、特定の社会的関係性、特定の時代的制約の中で生まれ、その限定の中で生きるしかない)。しかし、それは目的ではない。小説というジャンルの歴史的文脈の中で、それを書き換えるような「新しい何か」をする、あるいは、現代的な小説のモードの中で何か際立ったことをする、というようなことが、「小説を書く」ことの目的(目標)ではない。

(ここで「小説」を「絵画」に置き換えても同じことが言える。)

⚫︎では、何がやりたいのか。それは、自分が生きているというのはどういうことなのか(「このわたし」がある、というのはどういうことなのか)、この世界があるというのはどういうことなのか、についての探究、あるいは、「このわたしが死ぬ」というのはどういうことなのか、についての探究。ということになる。「魂」の問題というのは、そういうことだ。

⚫︎「このわたしの問題」は「わたしの(私的な)問題」とは違う。すべての人が「唯一のこのわたし」として世界に存在する。そしてすべての人が「唯一のこのわたし」として死ぬ。このような極めて一般的な問題を、誰もが「唯一のこのわたし」という「個別の場(個別の身体)」でしか経験(観測)できない。このねじれから派生するのが「このわたし」という魂の問題だ。

(この一連の文章から抜け落ちているのは、「あなた/わたし」という対関係の中で生じる「関係の倫理」としての正義の問題だろう。それは、社会制度や手続きの問題には還元されないし、「このわたし」の魂の問題にも還元されない。そして、「あなた/わたし」間の関係の倫理こそが、社会的関係性の倫理も「このわたしの魂」の問題も、どちらもそこから発生する「世界の原器」である可能性が高いと考えられる。世界の原器としての二人称。だからそれは「小説上の技法」ではない。)

(二項関係にも二種類あると考えられる。(1)隠された第三項の媒介によって成立する二項関係。そして、(2)出会い頭的に成立した二項関係から事後的に媒介的第三項が生じる場合。世界の原器として考えられる「二人称」とは後者であろう。)