2024-09-10

⚫︎思いつきのメモ。

⚫︎1983年のカンヌ映画祭コンペティションには、エリセの『エル・スール』、ブレッソンの『ラルジャン』、タルコフスキーの『ノスタルジア』などがエントリしていたのにもかかわらず、グランプリであるパルムドールを受賞したのは今村昌平の『楢山節考』だった。

楢山節考』は悪い映画ではないかもしれないが、それが『エル・スール』や『ラルジャン』や『ノスタルジア』よりも優れていると考える映画好きは、今ではなかなかいないだろう。でも、83年時点でのカンヌのリアルタイム評価としては、それが結論だった。

(ブレッソンタルコフスキーは監督賞を受賞したが、驚くべきことに『エル・スール』はなんの賞にも引っかかっていない。)

(追記。『戦場のメリークリスマス』もエントリされていたけど、「戦メリ」にかんしては大島渚の映画としてはよくない方だとぼくは思っています。)

「賞」の結果など、その程度のいい加減なものでしかないし、リアルタイムでの評価などというものもかなり怪しい、あやふやなものでしかない。「作品」に真剣に向き合っている人であれば、そんなことは当然のこととして知っているはずだろう。

(これは、審査員や選考委員がいい加減にやっているということではない。審査員が、真面目に、自らのもてる能力の全てを使って真剣に審査したとしても、結果としてはそうなってしまうということだ。それくらい、作品の評価、特に同時代の作品の評価は難しい。)

⚫︎たとえば、資本主義下の競争において、半導体の技術は「一位」でなければならない。一位の技術を持つ会社が、世界中の大半のシェアを取っていく。二位にまったく意味がないわけではないが、一位と二位とでは、その技術から得られる利得が天と地ほどに違ってしまう。

(ただし分野により、大きな利得が得られる一位と、たいした利得のない一位がある。だが、新しい「大きな技術」が生まれることで、技術の重要性の順位は入れ替わる。たとえば、生成AIの出現により「必要な技術の重要度」は大きく変わる。ある技術にかんして「一位」であることにほとんど意味がなくなり、「ほとんど意味がない一位」だと思われていた別の技術が重要になったりする。)

たとえばスポーツは、「一位」でなければ意味がないというわけではない。一位になれない大多数である裾野の広がりがスポーツの存在を支え、「一位」のクオリティを支える。たとえ勝てなくても、それをすること自体が充実や楽しさを生む。とはいえ、スポーツというものが「一位を目指すゲーム」としてある(そのような形式として存在している)ことは否定できない事実だ。それに参加する人は、とりあえずは「一位を目指している」ことになっている。そのようなていでそれは行われる。あるいは、「一位を目指したいという欲望(闘争心)」が、スポーツの持続可能性をモチベーションの点から下支えしているのかもしれない。そして、「一位」と「それ以外」が常に発生する。

だけど、「芸術」はそもそも「一位を目指すゲーム」ではない。そのような形式で存在しているのではない。もちろん、優れた作品もあれば、そうでない作品もある。質の高いものも、低いものもある。優劣や順位に客観性がまったくないということはない。それはかなり明確にあると思う。しかし、複数の「とても優れた作品たち」があるとして、そのうちのどれが「一位」で、どれが「三位」で、どれが「七位」であるか順番を決めることには意味がない。それぞれに個別の様々なあり方で「とても優れた作品」があり、それらはそれぞれ個別の良さと、個別の弱点を持っているだろう。この時、「良さ」と「弱点」とは分離できない形で絡み合っているから、その作品が、どの程度、どのように優れているのかを、点数や星の数や要素分布図で比較することに意味はない。

(単純な要素の加算によってでは測れない、構成・構造によって変化する量のことを強度量という。物の個数は、単純に足し合わせていけば把握できるが、建築物の耐震強度は、まったく同じ素材を使っていても、構成の仕方・構造で異なる。ゆえに「強度」と呼ばれる。作品の「強さ」も同様で、たとえば、構成力3点、アイデア5点、アクチュアリティ2点、みたいな、要素の単純な足し合わせでは測ることができない。また、耐震強度は「耐震」という共通の目的・動機があるので客観的に比較することができるが、作品はそれぞれに「個別の目的・動機」を持つから、その「強さ」の客観的な比較は困難で、かつ意味がない。)

⚫︎とはいえ、「建築」について考えると、そうとも言い切れなくなる。あるプロジェクトに対して、複数の優れた建築計画があるとする。そうだとしても、実現するのはそのうちの一つだ。コンペティションが開かれ、そもそも《客観的な比較は困難で、かつ意味がない》ものたちを比較して、「一位」を選定し、それだけでなく、それが「一位」であることの(それを「一位」として選んだ「基準」の)正当性を提示しなければならない。繰り返すが、そもそも《客観的な比較は困難で、かつ意味がない》ものの比較なので、その根拠の正当性は(正しいデータ、正しい計算によって、正しい解が導かれるという滑らかなものではなく)どこかに無理がある、幾分かは強引に導き出されたものになるしかない。それは、完全には正当化できない、穴の空いた、亀裂が生じている正当性であり、そこには(その是非については事後的にしか判定できない)ギャンブル的な飛躍が必然的に含まれるしかない。

(建築のコンペに限らず、「賞」というものには、大なり小なりそのような要素がある。「一位を目指すゲーム」として作られていないものたちの中から「一位」を決めるという無理ゲー。だからこそ、1983年のカンヌのようなことが起こり得る。それは必ずしも審査員の無能力や不誠実を意味するとは限らない。)

⚫︎一方に、並行世界的な「様々な可能性の並立状態(一位を目指さない)」があり、しかし他方に「限られたリソースにおいては可能なシステムのすべてが持続可能というわけではない(一位しか生き残れない)」ということがある。ここで、後者を固定された「限定条件」と考えてしまうと、そこから現実主義が始まる。そうではなく、前者と後者との、どちらが主でどちらが従とはいえない、決して調停することのできない抗争状態があると考える。そして、そのような両者が拮抗する抗争状態の中から、「限られたリソースにおいて可能なもの」という条件そのものを書き換えていこうとする働きが「創造する」ということだと思う。

わかりにくい書き方になってしまったかもしれない。たとえば、「選挙」には莫大なお金と、労力と、人員が必要であり、だから、そうちょくちょく行うわけにはいかない。このような「条件」によって、議員・政党には、かなり長い期間に及んで「権力を自由に使える期間」が生じてしまう。一度勝ってしまえば一定期間は好き放題だ。その間、メディアによる世論調査や政権支持率が、選挙の代替物として一定の抑制効果は持つかもしれない。しかしその効果は極めて限定的だ。

しかし、現在の情報技術においては、一度システムを作ってしまえば(それはかなり大変なことだろうが)、ほとんどコストをかけずに、四六時中、いつでも、どこでも、何度でも投票可能という状態を作ることができるだろう。ストリーミング投票と、その結果のリアルタイム表示が可能になる。そうすれば「人」にではなく「議題」に対して都度都度直接投票できるし、議員など必要なくなるかもしれない。

ポリテック(もはや死語かもしれないが)というようなことをいう人が、「デジタル投票ができれば若者の投票率が上がる」とか、その程度のことしか言わないのはどう考えても納得できない。現状の「選挙」という制度を決定づけていた「条件」が崩れ、まったく様変わりしてしまうというのに。まったく異なる選挙のあり方が考えられるということは、まったく別の民主主義のあり方を考えることができるということだ。

「創造する」とはだから、現状の制度の中で勝つことを考えるのではなく、現状を支えている「条件」や「前提」を変え得る可能性について考えることによって「勝つ」ということの意味を変えてしまう可能性を考えることだろう。建築について考えるなら、「様々な優れた計画があったとしても実現するのは一つである」という「条件」を変えることが可能なのだとしたら、それには何が必要なのかを考える、とか。あるいは、「一位」を選ばない「賞」はあり得るのか、など。