●感覚的なもの(イメージ)と、概念的なものとは、分けて考えない方がいいのだろうと最近は思うようになった。あるイメージは、関係を表現するための要素として一つの記号であり、同時に(既にそれだけで)複数の記号の結合でもあるから、それ自体である関係の表現でもある。しかし、ある概念もまた、関係を表現する一要素であるだけでなく、既に複数の概念の結合でもあるとすれば、両者は別物ではなくなる。ただ、感覚的に表現される関係と、概念的に表現される関係がある、ということになる。
つまり、絵も写真も、感覚的なものとして実現された、ある関係の表現だということになる。「この写真」の意味するものは、この写真が表現する諸感覚の「関係」だ、と。
●だかここで、昨日と一昨日に書いた問題が浮上する。あなたがトークン「あなた」としてあらわれるには、上位のタイプ・プログラムにとって「あなた」に合致することが必要であった。同様に、ある諸感覚の束(表現された関係)が、風景なり、絵画なり、もっと一般的に「イメージ」なり「作品」としてあらわれるには、一段上の階層、タイプ・プログラムとしての「風景」なり「イメージ」なりが必要となる。簡単に言えば、「それ」が「風景」なり「作品」なりに「見える」か「見えないか」ということ。上位にある「風景」というタイプ・プログラムから遠すぎると、写真はたんなる諸感覚の無秩序で雑然とした並列でしかなく(目をつむってシャッターを切ったような)、しかし近すぎると、紋切型で退屈な「絵葉書のような風景」となってしまう。
●では、ぼくの描く絵や撮る写真は、その中間である識別不能な領域を狙っているということなのだろうか。もしかするとそうなのかもしれない。しかし、やっている時の感覚としては違う。
なにより、識別不可能な領域はそれを「狙う」ことなどできないものだろう。ただ、無秩序とぎりぎりのところに立って、そこから、微かな秩序-関係のにおいを嗅ぎつけながら諸断片を関係づけようと努力する。やっているのはそういうことだと思う。そして、これならかすかなにおいが感じられる(諸プレ感覚の間に関係が成り立っていることがぎりぎり感覚可能になっている)んじゃないかという感触を得られた時に、とりあえずそれを「(複数のプレ・イメージの関係としての)一つのイメージ」として提示する。多数の断片のなかかから「あなたの萌芽」が予感されるものとしてのイメージ。
それは、具体的なイメージ(トークン・図・オブジェクト)の結合・制作によって、上位にある「イメージ」(タイプ・システム・地・メタ)を動かそう(更新しよう)とする行為だという意味において、確かに識別不可能な領域に触れたい、ということではあるだろう。「メタ」を直接作り出そうとするのではないこと、つまりあらかじめ目標としての完成イメージがあるわけではないのは、その「目標」こそが制作を通じて新しく発見され、創造されなくてはならないからだ。あらたなプレ「あなた」(微かなにおい-関係の予感)を辿る事によって、あらたな「タイプ」の書き換えがなされるのと同時に、そのなかからあらたなトークン「あなた」が出現する、ことを目指す。ややこしいけど。
でも、セザンヌの絵をはじめて「わかった」と思った時に起こったのは、多分そういうことだ。つまり、「その絵」が分かる(違ってみえる)ことと、「セザンヌの絵ほぼ全部」が違ってみえることは同時に起こる。おそらくその質的転換は、下の層からの働きかけ(一枚一枚を観ること)と、上の層からの予感(おそらく、それらの絵を観るという「行為」の蓄積)との中間で起こる。それは、はじめて自転車に乗れた時に起こっていたことと、全然別のことではないし(その時に乗れたことで、「いつも乗れる」ようになる)、はじめて分数の足し算が理解できるようになったときに起こっていること(この問題の通分が出来ることと、通分という概念が分かることとは同時に起こる)も、別のことではないはず。つまり、イメージも概念も技術(習慣)も、すべて同様の出来事(質的転換)によってもたらされるのではないか。
結局、下位イメージ(図)の操作(関係づけ)によって上位「イメージ」(地)の質的な転換を成そうとするという行為のことを、「思考する」というのだと思う。学ぶことと創造することが別物ではないと言えるとしたら、それらが「考える」によって媒介されるからだと言えるかもしれない。考えるということはそれ自体が練習(エクササイズ)なのだ。考えるということが、答えを出すのではなく「問いを書き換える」ことだというのは、多分そのような意味だろう。
●ぼくは、判断し、確定することにほとんど興味がなく、エクササイズによって、滞っていると感じられる何か(それが何かさえよく分からない何か)を動かしてゆくことにしか興味がないみたいだと気づいた。しかし、多くの人にとっては、確定すること、確定するための証拠を集めること、あるいは証拠を積み上げて固めることが、学ぶことだったり考えることだったりするみたいで、ぼくはそのことがあまりにも分かっていないし、そこに興味や関心が無さ過ぎるんだな、と、この歳になってようやく気づいた。
●一月の後半に撮った写真。その2。