●昨日の「あなた」の話は、ちょっと違う言い方をした方がいいのかもしれない。
「わたし」が「人間」と一対一で相対した時に、その相手はわたしにとって「あなた」として立ち上がるだろう。また、相手が犬や猫であっても、「あなた」として立ち上がるかもしれない。では、相手がカエルだった場合はどうだろうか。カエルであっても、「あなた」が成立するかもしれない。ならば相手がゴキブリであったら。あるいは、コップであったら。洗濯機であったら。地球であったら。細胞であったら。風であったら。メロディであったら。夕日であったら。ある特定の風景であったら…。
ここで「あなた」とは、わたしとの対称性によってあらわれるものだろう。つまり、同類であり、こころが感じられ、一つのまとまりをもった存在であり、交流が可能なものとしてあらわれる何か。
これを、ナルシシズム的で幼稚な感情だと言えるだろうか。例えば、ある人にとっては、実体のない二次元のキャラクターが、本気で恋愛や性欲の対象になるかもしれない。しかし別の人には、それはまったく信じられないと感じられるかもしれない。しかし、その人も、小さい頃からずっと一緒にいるヌイグルミに対して、あまり親しくない人よりもずっと生々しく「あなた」を感じているかもしれない。街を歩いていてたまたますれ違っただけの人よりも、十年以上愛用しているお気に入りの湯飲み茶碗の方に強く「あなた」を感じるとしても、それは特殊な感情ではないだろう。だとすれば、特定の風景や空間に、濃厚に「あなた」を感じることだってあり得る。
でも、すべてのものに「あなた」を感じるわけではないだろうし、いつでもどこでも必ず「あなた」を感じるというわけでもないかもしれない。わたしにとって、何かが「あなた」として立ち上がり、別の何かは立ち上がらないとすれば、そこに、無意識のうちに働いている「あなた立ち上げ判定システム」が存在するはずだろう。わたしが「あなた」と感じるその「感覚や感情そのもの(あなた的感情)」を「図」だとすれば、背後で働く「あなた立ち上げ判定システム」はその図(感情)を形作る「下地」であり、まさにこの地によって図が決定されているのにもかかわらず、空気のようなものであり、その地のあり様(アルゴリズム)は感知できない。
この「あなた立ち上げ判定システム」が、「わたしの無意識」のなかに固定的にあるのだとすれば、話はありふれたものとなる。しかし、このシステムが「わたし」と「あなた(「あなた」となるか「非あなた」となるか分からない何か)」の「間」でその都度作動するものだとした時、話の様相が大きくかわる(その時、「あなた」とともにその都度別の「わたし」がたちあがるとしたら…)。そこに、トークンとタイプとか、識別不可能な領域という話の必然性がでてくる。実際、「わたしの無意識」が「わたし」と「環境」の間のフィードバックによってかたちづくられるのだとするならば、それは全然突飛な話ではないはず。
●(追記、2月5日)一般化して「あなた」とすると考えにくいとしたら、例えば「相棒」だと考えればどうだろうか。バイク好きの人にとってバイクは相棒としてあらわれ、野球選手にとってバットやグローブは相棒としてあらわれるのではないか。「明日はヒットを打たせてくれよ」と語りかけながらバットを磨くというような光景は自然なものとして想像しやすいのではないか。あるいは、投手にとってはマウンドも相棒であるかもしれない。そうだとすれば、特定の場所が「あなた」としてあらわれるということになる。打者はバット(あなた)との関係において打者(わたし)となり、ボール(あなた)との関係において打者(わたし)となる。
しかしボールは相棒とは違う。野球選手(打者)にとってのボール、サッカー選手にとってのボールは、相棒というより、もっと逃れやすいもの、掴みづらいもの、移り気なものとしてあらわれるのではないか。相棒というより、ナンパの対象や合コン相手のような感じだろうか。バットやグローブは「わたしとペア」であるが、ボールはすべての選手に等しくひらかれている。野球選手にとってのバットやグローブが、ルパンにとっての次元や五右衛門であるとすれば、ボールは峰不二子みたいな感じではないだろうか。神出鬼没であり、味方でもあり敵でもあり、弄ぶ対象でもあり弄ぼうとする主体でもあり、欲望の目標でもあり誘惑する価値そのものでもある。しかしそれもまた「あなた」のあり様の一つである。