●夏至の日。
●引用、メモ。『解明 M・セールの世界』より。
以下でセールは、「抽象化しない」と言っているのでも「細部に拘泥する」と言っているのでもない。積極的に、「抽象化」し「総合」すると言っている。ただ、その抽象化するときの出発点や足場が違うと言っている(抽象化し総合するが、体系化はしない、と)。細部を尊重し細部に対し繊細であることは、細部に拘泥することとは違う。細部に拘泥することは、既成の、紋切り型の解読格子、認識格子をむしろ温存する効果となる(「実詞」の思考に近い)。そうではなく、重要なのは関係であり、総合である、と。総合は体系とはまったく異なり、関係を探る行為のなかから見いだされる関係である、と。総合は流体のなかから《一種の粘りけ》のようなものとしてあらわれてくる、と。
《(…)特に大切なこと、それは、先ほど言ったように、一つの鍵ではすべての錠はあかないということです。もし鍵が一つだけだったら、それはマスターキーと呼ばれる鍵なのです。哲学とは、決まった一つの方法によって得られる回答を並べることでも、このような方法が解決してくれるひとまとまりの問題を次から次へと出すことでもないのです。
というのは、普遍的な方法というものは存在しないからです。》
《これにたいしてわたしは、簡単なマスターキーでは十分でないような特異な点、局部的な細部にこだわっていました。そこでは逆に、非常に手のこんだ道具が必要だったのです。そうでないと仕事ができなかったのです。局部的な問題には局部的な方法を考えだす必要があります。違った錠をあけようとするたびに、その錠のための特殊な鍵を、したがってもちろん見分けられず、方法市場でも同じものが見つからないような鍵を鍛造する必要があります。そこで鍵束はすぐに重くなってしまう。反対に、メタ言語とあなたが呼んだものは、容易にそれと見分けがつきます。それは、スーパーマーケットとか、どこにでも売っていて、宣伝キャンペーンによって支えられている同一の鍵を、繰り返して使うことなのです。》
《(…)総合は、まさに体系とは一線を画していますし、ある一つの方法の単一性とさえも区別されます。総合とは、ひどく異なる一連の諸関係が、一体となることなのです。
このことについて説明するために、目下前置詞についての本を執筆中です。伝統的な哲学は、実詞と動詞とを用いて語っていて、関係によって語ることはありません。ですからいつでも、すべてを照らす神なる太陽から、一つの始まりから出発して、論理によって演繹されることもあれば、ある一般的ロゴスから出発し、そのロゴスが哲学に意味を授けてくれることもあるし、いくつかのゲームのルールから出発して、議論を準備することもあります……。もしそれがないと、そのときはたいへんな解体が、不信が、拡散が引き起こされるわけで、現代社会の崩壊のすべてがそこにあります。
あなたがわたしに求めているのは、それなのです。本能的に、ね。人びとが哲学に要求しているのは、いつもそれです。つまり、あなたにとって基礎となる実詞はなんですか、ということ。実在、存在、言語表現、神、経済、政治家等々、辞書にでてくるだけの実詞のうち、どれなのですか。どこから意味や厳密性を引き出しているのですか。あなたの体系のタイトルはなにイズムなのですか。もっとひどくなると、あなたの強迫観念はなんですか、という質問になります。
答えは以下の通りです。わたしはばらばらのやり方で、もろもろの関係から、つまり他のものとは非常に異なっている一つ一つの関係から(…)、そして可能ならば全部の関係から出発するのですが、それは最後にそれらを一つにまとめるためなのです。わたしの本の一冊一冊は、どれもが一つの関係、しばしば一つの特別な前置詞によって表現できる関係、について語っているということに気が付いていただけますか。間に位置する時間と空間には干-渉、前置詞の、…とともにで表現される関係としてはコミュニケーションや契約、……を通してには翻訳、……の傍らにには寄生-者…など、というふうに。》
《だからわたしは、抽象化をおこなうとき、けっしてなにかからとか、なにかの操作から出発することはありません。一つの関係、一つのつながりに沿ってやります。わたしの本の解読が難しいと思われているのかもしれませんが、それはこの関係が絶えず変化し動いているからです。この変化、これらの変換、彷徨、横断は、旅するごとに、ある一つの関係の道をたどっているか、あるいはそのような道を生みだしているのです。》
《したがって関係が進行中には、行動しなければならないし、またこの関係を継続していかなければなりません。始まりも終わりもありませんが、ある種のベクトルが存在しています。》
《実詞、つまり概念から、あるいは動詞、すなわち操作から抽象化する代わりに、または副詞や形容詞という、実詞や動詞の脇にあるものから抽象化するのでもなく、わたしは《vers》(方へ)、《par》(を通って)、《pour》(に向かって)、《de》(から)など、前置詞に沿って抽象化します。これらの前置詞の後について行きます。》
《一種の粘りけが出てきます。粘りは[諸要素を]一つにまとめ(コンプラン)、まとめさせ=理解させます。教える(アプラン)のです。しかしここで、すべてのものが強固で固定されているというわけでもなければ、もっとも固い固体も他のものよりちょっと粘りけのある流体にすぎない、ということは認めなければなりません。そして周縁や境界ははっきりしていないということも。輪郭のぼやけた流体です。すると知性が、時間のなかに、船脚や波動のなかに、入ってきます。(…)そう、これは包含=理解という概念そのものの先端部で起こっていることなのです。諸関係が事物を、存在物を、行為を生みだしているのであって、その逆ではないのです。》
●「実詞(対象)ではなく動詞(動き)で思考する」ですらなく、対象や動きや配置よりも前に前置詞(関係---関係付け、そして関係を壊す働き)があり、そこから、対象、動き、配置が《粘りけ》として派生してくる、と。そしてここで、ラグビーを例として準-客体(準-対象物)という話が出てくる。
《配置や定位置が重要なのは、選手が動かないときなんです。つまり試合の始まる直前や、スクラム、タッチなど、試合の途中で時どき既定の型をとるときです。ゲームが始まって、ボールがさまざまにそして波のように揺れ動いてパスされ始めると、たちまち配置も定位置もゆらぎ始めます。
ボールが動くと、チームのメンバーは全員そのボールにたいして位置をとるのであって、その逆ではありません。準-対象物としての、ボールがゲームの真の主体なのです。ボールは、周囲で揺れ動く集団の中にあって、諸関係のトレーサーとして働きます。おなじ分析が個人にも当てはまるでしょう。不器用な者は、ボールをおもちゃにしてボール遊びをし、自分の回りでそれを転がしていますし、駄目な選手は、自分を主体だと思い込み、ボールを対象とみなします。これは能力のない哲学者とおなじです。それにたいして、もっとも上手な選手は、ボールが彼とたわむれ、彼を手玉にとっているのを知っていて、だからボールの回りを巡って、ボールの行く位置に流れるようについて行き、そしてとりわけボールが切り開いて行くあらゆる関係の後を追って行くわけです。》
《この抽象化の方法は、きわめて現代的な諸科学の抽象化の方法と、まだそうかけ離れてはいません。そして、たとえば数学においては、また物理学においても時としては、主体と対象よりも関連や関係のほうがより多く見いだされるという意味からすると、この方法はおそらくこれら諸科学を一般化しているものなのです。》