●『UNDERWATER LOVE おんなの河童』(いまおかしんじ)をDVDで。DVDで、とはいえ、映画を観るのは久しぶり(ここには書かなかったけど、実はアニメならば、『機動戦艦ナデシコ』を改めて最初から観直したりはしていた)。
でもこれはちょっと、いまおかしんじの作品としてはうまくいっていないように思った。いまおかしんじは確かに、主にピンク映画という特殊なジャンルで映画をつくってはいるけど、決して「マニアックなカルト作品」みたいなものを作る作家ではないと思う。この点に関して、企画の段階くらいからすでに勘違いが生じてしまっていたのではないか、と感じてしまった。「ピンク映画」というジャンルを前提としたそのパロディをつくろうとしてしまっている感じ。それがなんか「やりづらそう」な感じ。まあそれは、この映画のそもそもの立ち上がりの経緯(日独合作で、ピンク映画という日本に特有の「特殊なジャンル映画」の作品として海外で上映されることがあらかじめ決まっていた)からしてある程度は仕方ないのかもしれないのだが。
一応、『おじさん天国』を裏返したような話になってはいるけど、お話としてちょっと凡庸過ぎる気がする。とはいえ、あまり上手くいっていないと感じるのは、話の凡庸さよりも、河童の造形のせいだと思われる。いまかおしんじの映画に出てくる「超越的存在」は、『たまもの』のボーリング球男も、『かえるのうた』のかえるの着ぐるみも、『おじさん天国』の夢の女やダイオウイカも、『罪』のキリストのビジョンも、『ゴースト・キス』の幽霊も、『若きロッテちゃんの悩み』の死体も、その造形がすごく微妙というか、絶妙に外していて、その浮いた感じがすごくリアルなのだが(この絶妙な外し方にこそ、いまおか的超越性のリアリティがかかっていると思う)、この映画の河童は「中途半端にそれらしく」作り込まれていて、「あえて低予算的なチープさを狙って売りにしている感」になってしまっている。「微妙なチープさが時空を歪ませてしまう(作家的実質)」となるか、「あえてチープっていう線を狙ってみました(文脈ずらし)」となるかで全然違ってしまう。
(「ピンク映画」という特殊なジャンルが、海外からはこのような文脈で見られるだろうという、外からの視線を意識することによって、このような結果になってしまったのではないかという気がしてしまった。)
●とはいえ、観ている途中に沸き上がってきたそのような批判的な思いも、ずっと観つづけて、最後まで到達する頃には、それはそれとしても、これはこれでまあいいんじゃないだろうか、という気持ちになってしまうというのが、いまおかしんじの映画の力なのだとも思う。
それにしても、『たまもの』などでは、いかにも「さえない青年」という感じだった吉岡睦雄が、この映画ではもうすっかり「おっさん」になっていて、「この人ももうすっかりおっさんだなあ」としみじみ思うことができるということだけを取り出しても、映画を観るということは貴重な経験なのだと思うのだ。
●今日の机の上。







●今日の夕空。