●去年読んだジェフ・ホーキンスの本は、脳(新皮質)の仕組みを調べることで、そこから人工知能を可能にするシステムを探り出そうとするものだった。今年読んだ西川アサキの本は、脳こそが幻であるとし、モナドジーによって心身問題をあらたに構成し直そうとするものだった。いわば、真逆のアプローチなのだが、それによって描き出される世界の描像はとても似ていて、親和性が高いように思われる。脳から攻めていっても、クオリアから攻めていっても、ほぼ同じような地点に至る。脳から導きだされるシステム・構造も、モナドから導き出されるシステム・構造も、とても似たかたちをしている。それはどちらも、階層構造と並列構造の重ね書きとして示され、下から上へと上から下へという、情報の流れの双方向性が強調される。
●ではなぜ、そのようなシステムが一方で物質となり、もう一方でクオリアとなるのか。この地点に徹底してこだわっているのが、郡司ペギオ-幸夫の本であるように思われる。あなたは、他ならぬ「あなた(トークン)」であると同時に、例えば「人」というタイプのモデルでもある。わたしが既に知っている多数の「あなた」の集合から形成されたタイプ(人)に、あらたな「あなた(トークン)」が加わることで、「タイプ」そのもの(プログラム)が書き換えられる。
こう書くと簡単なようだけど、そうではない。あなたが「あなた」として現れるためには、あなたは「人」でなければならない。しかし、あなたがはじめから「人」というタイプに合致しているなら、「人」というプログラムが書き換えられることはない。人は、人という定義に合致するから人なのではなく、人というタイプを感知するプログラムによって「あなた」として現れるから「人」であるのだ。だからあなたはいつも、人と非人との中間のどこかにあらわれる。人に近ければ、あなたというトークンによってタイプ「人」は書き換えられない。人から遠ければ、そもそもあなたは「あなた(というトークン)」となることがなく見過ごされる。どの程度「人」に近ければあなたとなり、どの程度遠ければあなたにならないのかという境界は不確定で、事前には決められない。ここには必ず識別不可能な領域が生まれる。しかしその不確実性がなければ、プログラムは固定され自動的な書き換え(創発)は不可能となってしまう。逆に言えば識別不可能な領域から、新たな「人」としての新たな「あなた」が見いだされる、というか出現する。このような創発を西川アサキは「空気がかわる」あるいは「気づき」と書いていた。
(勉強と創造が別のものではないというのは、そういう意味であろう。結果を得るためには何をどう勉強すればよいかの範囲や手法は、結果が出る前には原理的に確定できない。)
●西川アサキによれば、この、識別不可能な領域の不確実性(境界が事前には決して確定できないこと)こそが「意識」を生む。だから、脳がなくても意識はある。そして、このような識別不可能な領域こそが潜在性へ(潜在性からの)の通路ということになる。このように考えることができるならば、例えば荒川修作の言っていることも、そう突飛なことではなくなる。
●上記のことをふまえた上で、ラトゥールの言う「アニミズム」を考えるととても面白い。身体はなぜ必要なのか。
《「自然主義者」が、物理的な特徴を基礎にしながら存在物の類似性を描きだし、それらを心理的および精神的なものを基礎にして区分けするのに対して、「アニミズム」は、すべての存在物は、精神的な意味合いにおいては同じであるが、それらが授けられている身体のせいで、ひどく異なったものであると理解することで、それとは反対の位置取りをする。》