2024-09-05

⚫︎『新宿野戦病院』、10話。このドラマで今まで人の死が描かれたのは二回だったと思う。一つ目は5話で、ホームレスの老人が政治家にエクモを横取りされて亡くなるという話。もう一つは、7話で、独居老人がアパートで心肺停止状態で発見される話。もう一つ、小池栄子アメリカ時代のルームメイトのパートナーが戦死したというエピソードもあるが、これは過去の話として「語られる」のみだった。

二つの例では、亡くなるのはどちらも老人であり、なんとか命を取り止めようとする過程が描かれる。しかし今回は、初めて若者が、しかも、直前まで「うぇ~ぃ」とかいっていた元気そうな若者が、次のカットでいきなり斎場の骨壷に変わってしまう。この唐突な感じに、コロナ初期の恐怖を思い出した。

コロナ初期には、コロナの症状は、重症化するととても強い苦痛に見舞われるという話がある一方、たいして重くない症状の人が、唐突に、すうーっと眠るように亡くなってしまうという話もあった。それがとても強い恐怖としてあった。ちょうど自分と同じ年齢の人だったので強く印象に残っているのだが、立憲民主党の議員が、体調が悪いので病院に行こうとして、シャワーを浴びて、車が停めてあるところまで歩いていく途中で、いきなり倒れてそのまま亡くなったということもあった。facebookで流れたきた記事で、コロナを担当している医者が、「不謹慎だが、コロナで死ぬのも悪くないと思ってしまうほど、静かに穏やかに亡くなっていく」というようにことを書いていた。

⚫︎今回は、未知のパンデミックの話というより、コロナを忘れるな、コロナ禍での態度を各々改めて反省しろ、と訴えてくるような話だった。よくできているとは思うが(相変わらず、ちょくちょく視聴者をディスってくる感じが小気味良いと思うが)、取り立てて何か書きたいと思うことはあまりなかった。

⚫︎一つ思ったのは、このドラマを通じて何度も問題にされる「平等」という語の持つ、意味の難しさだった。確か1話で、橋本愛が仲野太賀に「この社会は平等だと思いますか ? 、平等だと思うのなら、なんでわたしだけと思って虚しいでしょうけど、社会が平等だとは思わないので、虚しくないんです」というようなことを言った。この言葉の意味がいまひとつ飲み込めないまま、ここまで観てきた。そして今回、疫病によって、強引に「命の平等」にさらされているような状況で、「平等だから、なんでわたしだけ、と、虚しく思うんだ」と、何かを納得したようなのだが、この納得も簡単には飲み込めない。

論理的に考えてみると、社会が不平等である場合、「わたしだけ」に降りかかる「何か」の原因は「社会の不平等」にある。故にそれは因果関係として納得できる。しかしもし平等であるとすれば、何かが「わたしだけ」に降りかかったことは、ランダムに、たまたま外れクジが当たってしまったようなものだ。そこに因果的「原因」を見出すことができない。そこに意味も根拠もないことになる。だから「虚しい」ということだろうか。

因果的原因が見出せるものには、それにかんして改善を行うような、能動的、主体的行為が可能だが、ルーレットのようにランダムな事象については、能動的介入をすることができない。そもそもその余地がない。能動性が剥奪されるが故に「虚しい」。

一方に、あらゆる命に対して、差別なく、平等に「雑に」助ける小池栄子の存在がある。彼女の「平等」は、戦場においてすべての兵士が等しく命の危機にさらされているような状況において成り立っている(戦場が本当に命が平等な場なのかは、やや疑問があるが)。そのような例外的状況では社会的不平等が無効化される。小池栄子は常に例外的状況に生きており、その平等は、例外状態だからこそ現れる平等だ。彼女は通常の病院を野戦病院化する。

対して橋本愛は、通常の社会、つまり不平等がデフォルトである社会に基盤(根拠)を置いている。不平等である社会において、それをすこしでも改善しようという努力をしている。それが彼女の行動原理であり、行動の根拠である。その意味で小池栄子の対局にある。しかし、社会全体が例外状態に陥ることで、強制平等化が生じ、その能動性の根拠そのものが奪われてしまう。そして、パパ活する女性も、そこに群がる男性も、見事に一人もいなくなった大久保公園前の通りを見て、自分の能動性の限界性(無力さ)に直面する。例外状況が現れることで、自分の行動原理が根拠から奪われてしまう。自分のやってきたことはそもそも無意味だったのではないかという疑いに襲われる。

小池栄子にとって平等は前提であり、当然のことであるが、橋本愛にとって「平等」は、能動的な努力の末に辿りつかれるべき目的であり、その努力(の動機)は現状が不平等であることによって根拠づけられる。しかし、望ましくない形の「平等」が暴力的に降りかかってくることで、その目的が見失われてしまう。

⚫︎確かに、未知のウィルスに対して、命の危機にさらされているという意味で、人は平等だと言えるかもしれない。しかし、その先、入院や治療というレベルでは、かならずしもそうは言えない。野戦病院ではない、通常の病院は不平等な社会の一部としてある。コロナの時に、中等症でかなり症状が重い人でも自宅療養するしかなかった時期に、自民党の議員は、感染が確認されただけで、症状が出ていない時期に即入院できた。

(追記。完全に隔離が必要な患者とリモートで面会するというのはいいアイデアだと思うけど、実際にやっている病院はあるのだろうか。というか、リモート面会の設備はデフォルトにするといいのではないかと思った。)