⚫︎『新宿野戦病院』、6話。今回はコメディとして傑作回なのではないか。大きいトスも、小さいトスも、上がったトスがすべて予想外のところに打ち込まれる。コメディライターとしての宮藤官九郎は、今まさに絶頂期なのではないか。開始直後に、今まで溜め込まれてきたさまざまな「秘密」が、あっけなく、惜しみなく、次々に開示されていく様などは圧巻だった。ただ、当初は歌舞伎町の多言語・多国籍的な様が描かれていたこのドラマだが、回を重ねるにつれてドメスティックになっていく感じはやや気になる。今回も、日本の文化や芸能にある程度精通していないと笑えないネタ(ガンダム・ケーシー高峰・にしおかすみこ・エッフェル姉さんなど)が多めだった。
(SMの女王様たちが皆、にしおかすみこ化していく、特に岡山弁を禁止された小池栄子が苦し紛れににしおかすみこ化していく様には爆笑させられたが。)
このドラマには主に二つの家族の問題があった。一つは、病院を巡る、家父長制的で強すぎる磁場に皆が縛られているという問題(主に平岩紙問題)。もう一つは、子供が生育していくための最低限の環境すら成立しない、崩壊した家族の在り方(主に伊東蒼問題)。固着化と崩壊。この二つの問題が、笑いの中で、笑いによって、少しずつ解かれていく。今回は特に前者。驚くべきことに生きていた柄本明の元妻(松金よね子)を中心とした場で、家父長としての柄本明が徹底的にコケにされる場面によって救われているのは、誰よりも平岩紙であろう。松金よね子が「娘を外科医にしなかったことが私の唯一の誇りだ」と言う時、そこには余貴美子―小池栄子というラインによって示される力とはまた別の、もう一つの力として、家父長制的家族から離脱の力が働いている。
しかしその一方で、それらとは違った「家族」の問題が浮上してきている。一つは橋本愛の問題。彼女は、「歌舞伎町でSMの女王様をやっている人」であると思っていたら、文字通りの(歌舞伎町の風俗王の「娘」として)リアルな「歌舞伎町の女王」であった。ここにもまた、(非常に強い、強すぎる)父と娘の問題があるだろう。そしてもう一つ、塚地武雅の母(藤田弓子)と息子(塚地)という家族関係。後者はより密着的でヤバそうな気配を含んでいる。新たに浮上したこの二つの「家族」の問題が今後どうなっていくのかが気になる。
⚫︎日本語に「敬語」があることはとても大きな問題だとずっと思ってきた。敬語においてはまず、発話者の「立場」があり、それに対して、語りかける相手が(どの程度)目上であるか、(どの程度)目下であるかによって、語り口を変えることが要請される。つまり、言語の構造の中にあらかじめ「立場をわきまえろ」という強い圧力が含まれている。そのような言語が、それを用いて行われるコミュニケーションに強い強い抑圧を生じさせていることは間違いないだろう。
だが、それを壊してくれるのが「外国人の使うカタコトの日本語」なのだ。目下の者のタメ口を気に入らないと思っているような人でも、さすがに、カタコトの外国人から乱暴に話しかけられて(「正しい」敬語ではないという理由で)怒ることはないだろう。カタコトでなされるコミュニケーションは、空気や忖度が過剰に張り巡らされたコミュニケーション空間の抑圧を破壊する効果をもつ。英語も日本語もカタコトであるような小池栄子を物語の中心に据えることで、宮藤官九郎はそのような効果を作品に持ち込んでいる。彼女の発する言葉がネイティブ的な正しさと無縁であることこそが重要なのだ。彼女の治療が「乱暴だ」ということと、彼女のコミュニケーションが(空気を読まず忖度もしないという意味で)「乱暴だ」ということとは密接に関係しており、その、乱暴であることの直裁さが、さまざまに絡んだ抑圧の網の目を解いていく。
(「乱暴だ」ということと「平等だ(フラットである)」ということがペアになっている。)
(分け隔てなく、頻繁にハグするということもまた、日本語的コミュニケーションの距離感を撹乱する。)