2024/07/04

⚫︎『新宿野戦病院』の一話を改めてもう一度観た。このテンションが最後まで続くのならすごい傑作になるのではないか。

美談めいたエピソードを採用しつつ、笑いによるツッコミでその「美しさ」に疑義を示して相対化し、分かりやすい紋切り型の要素を取り入れつつ、コメディ的飛躍でそれをあざやかなイメージにまで発展させ、差別や偏見を助長させかねない(というか、差別や偏見の根本に迫るような)危ういところに切り込みつつ、反対側の視点を必ず対置して批判的な視点を確保する。絶妙のバランス感覚という言い方では足りなくて、さまざまな力を複雑にせめぎ合わせることでギリギリの均衡状態を作り出している。単なる緊張と弛緩ではなく、さまざまな力の複合としての緊張と、さまざまな力の複合としての弛緩。

現代社会の反映という要素が強く、また、「思想が強め」のドラマでもあるが(このドラマを好む人は決して小池百合子に投票しないだろうし、小池百合子に投票する人はこのドラマを嫌うだろう)、だとしても、それらの反映や主張は、この作品を形作る「激しくせめぎ合う諸力」のうちの一つであって、作品は「現在」や「思想」に還元されるものではない。

⚫︎小池栄子は、とんでもなくひどい英語と、どぎつい岡山弁のチャンポンで、英語も日本語もカタコトのような状態であり、彼女を中心とするこのドラマでは必然的に、英語(ひどい英語から比較的まともな英語まで)と日本語(標準語から癖の強い岡山弁まで)とが入り乱れる(日本語よりも英語のセリフの方が多いかもしれない)。それはこのドラマの舞台である現代の歌舞伎町の姿の反映のようなものでもある。

一方に、難民申請が通らずに不法滞在を余儀なくされる外国人がおり(強制送還されると本国で殺されるかもしれない)、もう一方に、そのような外国人たちに居場所を奪われていると感じ、それだけでなく世の中の流れ全体からも排斥されてしまっている感じている孤独な老人がいる。人口密度の高い狭い土地の中に両者は同居し、そこでのすれ違いざまの不幸な出会いが悲劇的な事件に発展する。老人の誤った憎悪が、立場上、福祉にも医療にもつながることのできない(実は老人の利害とは無関係な)外国人に瀕死の負傷を負わせてしまう。そしてその時の激昂から、老人も倒れてしまう。その二人が、同じ病院の処置室に隣り合わせに横たわることになる。

現代社会の反映、または問題提起として、このような物語を語るドラマは他にもあるだろう。

(日本では無免許の)アメリカ軍医である小池栄子は、二人を、ある意味では救うが、別の意味では無関心ですらある。二人の命を救うことで、老人は「差別的な殺人者」のまま死んでいくことを逃れ、外国人は「差別的な殺人者の被害者」であることから逃れる。しかし、老人の疎外感と孤独は何も変わらないし(そして、先の短い人生を刑務所で過ごすことになるだろう)、収監された外国人は強制帰国させられ、本国で殺されるかもしれない。ただ、老人には自分の誤った認識と行動を反省する機会が与えられ、外国人には異国で助けられたという(期待もしていなかった)経験が与えられる。

本国に帰されれば殺される者を救ったとしても空しくないのかと、仲野太賀は問う。小池は、遅かれ早かれ人は死ぬ、自分の仕事は、ただ目の前の患者を救うだけだ、だから空しくないと言う。仲野は拝金主義者であるが、それはつまり目的論的であるということだが、小池の存在は、仲野の目的論を揺るがす。しかし小池のその態度は、命は救うが、その先の(それ以外の)ことは知らない(無関心である)ということでもある。小池にとって社会は戦場という例外状態と同値であり(故に脱法的行為に躊躇がなく)、だから命は平等で、誰であれとにかくそれを救うことこそが急務であるから、「空しさ(ニヒリズム)」に襲われることもないが、環境や制度の改善などに関しては無関心である。外国人の困難も、老人の孤独も、彼女の関心外だ。人はそれぞれで勝手にやればいい。金持ちだろうが貧乏人だろうが、その状況には介入せず「ただ平等に命を救う」だけ。それはリバタリアン的な態度とも言える。

(小池は、戦場で死んだ兵士に預けられたものを届けるために来日したはずだが、その目的を果たすことができない。小池はそれによって落胆することもなく、笑い飛ばす。コメディとしてのキレが美談への着地を許さない。)

⚫︎そのような小池に対して、橋本愛の存在がある。橋本は、NPOの代表として、困難な状況にある人のサポートをする(このような利他的な態度もまた、目的論的な仲野の認識を揺るがす、仲野は揺れ動く存在だ)。リバタリアン的な小池の関心外に、橋本の活動するフィールドがある。その、小池と橋本の交錯からドラマが始まる。外国人向けに(英語で)歌舞伎町を紹介する動画を撮影中の橋本に、外国人が英語で話しかけ、その先にはひどく癖のある英語を喋る小池がいる。いきなりずっと英語なのだ。

(そのような橋本が、どうやら夜は買春のようなことをしているらしいという仄めかしで終わるのだが、この、図式的で紋切り型にに思える「分かりやすい二面性」が今後どのように展開されていくのか。破天荒な小池に対してミステリアスな二面性の橋本を対置するというのは、やや安直ではないかという危惧もあるが、それが杞憂であったと思える展開を期待したい。)

⚫︎追記。「住めばミヤコ蝶々」をオチに持ってくるって…。「ミヤコ蝶々」を知っている視聴者はどれくらいいるのか。

(塚地武雅の役名は「堀江しのぶ」なのか。どんだけ80年代…。←「堀井しのぶ」の間違いでした。)