2024/07/24

⚫︎『新宿野戦病院』、四話。ここまではずっとすごい。「不適切…」も面白かったが、軽く上回ってきてる感じ。

今回は、「望まれない子ども」として、平岩紙、伊東蒼、そして、生まれたばかりの谷花音の子どもという、三つの層が重なる。ただ、この三人はそれぞれ置かれた環境が異なる。

平岩紙は、家父長制的な家=病院における「望まれる役割」としての居場所がない。彼女はまず、男の子として生まれることが望まれ、次に、女性だとしても医者となって病院を継ぐことが望まれ、そして、それが無理であれば外科医の夫を婿とすることが望まれている。彼女はそれらのどれも実現できず、ソーシャルワーカーとして「父の病院」で働いている。彼女は、家父長制的な価値観を内面化しているので、そのような価値観の中で自分が果たすべき役割を果たせていないことに罪悪感を持ち、居心地の悪さを感じている。そして、なんとかして最低限の条件(外科医の婿をとる)だけは実現しようと努力する。

そこに不意に、異母姉妹である女(小池栄子)が現れ、そしてその女は外科医であるという(アメリカの軍医であり、日本では無免許だが)。家=病院は女が継げば良い、となる(とはいえ、あの「女」が継ぐとは思えないが…)。すると、彼女の罪悪感、彼女の居心地の悪さ、彼女の努力が、つまり彼女の「苦しみそのもの」が、すべて意味がなかったことになってしまう。まさに中空で梯子を外されたような状態だ。

だがこれは、逆から見れば役割からの解放であり、家からの解放である。平岩は、小池の出現で、家=病院が強いてくる役割から自由になった。とはいえ、生まれた時から役割を背負わされ、家父長制的価値観を内面化させられている彼女からすると、それを解放と捉えるのは困難で、自分自身の存在の意味の消失と捉えてしまうことは避けられない。

ただこれは、あくまで「役割」、あるいは役割が強いられている「内面」の問題で、物理的には、平岩は一人娘で、「病院のお嬢様」としてなに不自由なく、大切に育てられただろう。だからこそ内心がひどく苦しいと考えられるが、少なくとも物理的にネグレクトをされたりはしていないだろう。衣食住のレベルで不自由はまったくなかっただろうし、(医大に合格できなかったとしても)教育も十分に受けられただろう。そして平岩は、不本意だとしても(針の筵であるかもしれないが)、家=病院にソーシャルワーカーとしての職・役割・位置・居場所を持つ。

その意味で、家族、というか、生育環境そのものが崩壊している伊東蒼とは、「望まれていなさ」が異なっている。彼女は存在そのものが望まれていない。だから伊東にはそもそも強いられる「役割」すらない(期待されていないので「期待はずれ」にもなれない)。大人による保護を受けられる、物理的な居場所がない。母は自分を保護することを放棄し、母の元にいると母の交際相手から性暴力を受ける。物理的に、安全でいられる場所がない。その分、強いられる「役割」はない。縛られてはいないので、橋本愛から「そういう子」とカテゴライズされたとき、それを否定することはできる。わたしはわたしであって「そういう子」ではない、と。だが、居場所もなく、役割もないので、自分の位置が確定できず、自分としての意思や欲望(願い)も持つことができず、どこまでもふわふわと存在するしかない。わたしであるわたしがどういうものなのかはわからない。そのような伊東がたどり着いた仮の居場所が歌舞伎町であり、歌舞伎町の病院である。病院は、一時的ではあっても伊東を保護するシェルターとなる。

強いられた場所(家)、強いられた役割があり、それを満たせないことによって「望まれない子ども」である平岩と、居場所も期待される役割もなく、そもそも保護されて存在を許される場所がないという意味で「望まれない子ども」である伊東とは、「望まれなさ」の意味が逆を向いている。一方は、古い家=価値観によって強いられたもので、もう一方は、そもそもそのような「生育環境としての家」が成り立たなくなってしまったことによって生まれる問題だろう。古い問題と新しい問題とが、あくまで「現在」の歌舞伎町の「病院」の上で、そこを舞台として交錯する。

そのような「病院」でまた「望まれない子ども」が一人誕生する。谷花音は、トイレか何かで一人で産んで、赤ちゃんポストにでも預けようと考えていた。だが、東京には赤ちゃんポストがないことさえ知らない。この「望まれない子ども」もまた、(トイレではなく)この「病院」で生まれれることで、この世界での生存という最低限の位置を、とりあえず持つことはできた。

⚫︎このドラマにおける小池栄子のキャラは、ほとんど出オチ的と言えるくらい強烈で、登場した瞬間から既にすべて明らかだ。彼女の出自や日本に来た経緯などは、ドラマが進むにつれて徐々に明らかになるのだが、「キャラ」としては、最初に現れたそのままであり、はじめからベッタリと開示されている。つまり、顕在的即効性キャラだと言える。対して、橋本愛は、最初に登場する段階ではこれといった特徴がなく、徐々にその特徴や癖が現れてくる。潜在的遅効性キャラだろう。二人のヒロインのキャラのありように、このような「時間差」が設けられているということが、このドラマの一つの面白いところだと思う。