2024/07/25

⚫︎『いもの国風土記』(黒川幸則・井上文香)との関連で、『キューポラのある街』(浦山桐郎)をDVDで観た。画質のあまり良くないDVDだったが。1962年公開の映画。この頃の日本にはあって、今は失われたものというのが確実にあるなあと思った。「昔は良かった」ということではなくて。

意外なことに、映画の中で何度か「スーダラ節」が流れる。この映画で描かれる状況と「スーダラ節」が同時代的であることにやや驚く。クレイジーキャッツの「スーダラ節」はこの映画の前年、61年に発売され、この映画と同じ62年にはクレイジーが出演する『ニッポン無責任時代』が公開されている。この2本が同じ年に公開されているというのは少し面白い。明らかにこの映画にそぐわない「スーダラ節」が複数回流れるということには批評的な意図が感じられる。「スーダラ節」やクレイジーキャッツが流行るような世相への批判が、この映画には込められているだろう。

ただし、『キューポラのある街』と『ニッポン無責任時代』の、どちらが現在の日本と連続性があるかといえば、それは後者であろう。逆にいえばそれは『キューポラのある街』からは「決して実現しなかった未来の可能性(レトロフューチャー)」が見て取れるということでもある。この映画に込められた「希望」は実現しなかった、ということだが。

映画のラストで吉永小百合は、県立の高校へ進学することを断念し、中卒で就職して、定時制の高校へ通うという選択を、自らする。映画の途中では、彼女は県立高校への進学を強く望んでおり(彼女はとても勉強ができる)、しかし、父親が失業して、それが叶わないことに絶望する。映画の終わりで、「組合」の力添えによって父が復職して(父は、アカが大嫌いで組合も嫌いだが)、彼女は経済的には高校へ進学することが可能になる。にもかかわらず、吉永小百合は、就職して定時制高校へ通うことを、自分の意思で積極的に選択する。

親の金で高校へ通うのではなく、労働者たちが、労働に従事しつつ、それでも同時に学び、学び続けることができる。単に、自分の将来のためという利己的な理由で学ぶのではない、労働者たちが皆で学ぶ(「労働者たちが皆で学ぶ場=定時制高校」で学ぶ)という、そのような学びのあり方こそが、社会の未来に明るい光を灯す。希望はそこにある。とても厳しい状況を描くこの映画は、そのような希望に賭けるようにして終わる。

(吉永小百合が、「一人の人が五歩進むより、十人の人が一歩ずつ進んだ方が良い」というようなことを言うのだが、そのような言葉に説得力があった時代なのだろう。)

だが、この吉永小百合の選択を、現在の地点から見て、すんなりと肯定するのは難しい。もし行けるのであれば県立高校に行っておいた方がいいんじゃないかなあ…、と、どうしても思ってしまう。映画のラストに見出された「希望」こそが、この頃にはあって、現在では失われてしまったものだと言えるのではないか。

また、この映画に登場する朝鮮の人たちは、「新国家」のために働くことを望み、希望を持って北朝へ帰っていく。それを見て(その希望の先にあるものを知る現在から見ると)、なんともいえない気持ちになる。これはわずか60年前の出来事だ。

(吉永小百合の友人だったヨシエは、北朝鮮でどのように生きたのだろうか。)

⚫︎吉永小百合が就職するのは、地元の鋳物工場ではなく、電子機器を扱う大企業の大工場だ。そこには、働く女性たち―同士たち―が大勢いて、福利厚生もちゃんとしている。そこに「希望」があるかのような、あまりに楽観的な描き方も、今から見ると「うーん」という感じではある。