2021-03-08

●U-NEXTで『日本春歌考』(大島渚)を観ていた。自分が生まれた年につくられた映画。大島渚は松竹ヌーヴェルヴァーグと言われているが、映画作家(作品のスタイル)としてはヌーヴェルバーグの次の世代、アンゲロプロスベルトルッチなどに近いと思う。大島渚、1932年生まれ、アンゲロプロス、1935年生まれ、ベルトルッチ、1941年生まれ、ゴダール、1930年生まれ、トリュフォー、1932年生まれだから、世代的にはヌーヴェルヴァーグだし、『大人は判ってくれない』、1959年、『勝手にしやがれ』、1960年に対して、『愛と希望の街』、1959年、『青春残酷物語』、1960年なのだから、キャリアとしてもヌーヴェルヴァーグと併走しているのだが、作風としてははじめから、アンゲロプロスやベルトリッチの先駆けとしてあると思う。

(歴史的、政治的な主題と、映画がつくりだす空間や時間とを、どのように絡ませるのか、歴史的、政治的な主題の導入するには、どのような映画的な空間や時間の発明が必要なのか、という点への注目によって三者は共通する。たとえば、アンゲロプロスは、政治的、社会的、世代的な対立や断絶を、宴会における歌合戦やダンス合戦として時空化するのだが、この点で大島渚は見事に先駆けている、とか。)

『日本春歌考』は1967年の作品だが、これはベルトルッチの『暗殺のオペラ』(1970年)よりも、アンゲロプロスの『1936年の日々』(1972年)よりはやい。これは驚くべきことではないかと思う。ベルトルッチはこれよりはやく、1964年に『革命前夜』をつくっているが、それより、大島渚の『青春残酷物語』(1960年)『太陽の墓場』(1960年)『日本の夜と霧』(1960年)の方がはやい。さらに『飼育』(1961年)『天草四郎時貞』(1962年)と、60年から62年までの3年間の大島渚の爆発的な創造性にはすさまじいものがある(さらに、67年から68年のわずか2年で、『忍者武芸帳』『日本春歌考』『無理心中 日本の夏』『絞死刑』『帰って来たヨッパライ』をつくってるのもすごい)。たんじゅんに考えて、『日本の夜と霧』が、『暗殺のオペラ』や『1936年の日々』の10年前に既につくられているというのはすごいことではないか、と思う。

ベルトルッチがそのキャリアの初期の段階で大島渚の映画を観ているかどうかは分からない(おそらく、観ていない可能性が高いと思う)。たとえ観ていなかったとしても、ベルトルッチが『暗殺のオペラ』(1970年)や『暗殺の森』(1970年)をつくり得たのは、それよりも前に大島渚が『太陽の墓場』(1960年)や『日本の夜と霧』(1960年) 『日本春歌考』(1967年)といった作品をつくっていたからだ、と言ってもいいのではないか、とさえ思う。

だからこれは、影響関係というより、同時代的な共振なのだと思う。そして大島渚はその共振の先駆け的な作家なのだ。ギリシアアンゲロプロスが『1936年の日々』(1972年)や『旅芸人の記録』(1975年)がつくることができたのは、それに先駆けて、日本で大島渚が『日本の夜と霧』(1960年) 『日本春歌考』(1967年)をつくっていたからなのだ、と。完全主義であるアンゲロプロスに対して、大島渚は明らかにそうではなく、雑に時代と同調しちゃっているような作品もあるのだが、決して完全主義ではないということろが大島渚の良さでもあるだろう。とはいえ、たとえば『儀式』(1971年)は、『旅芸人の記録』と比べてもなんら遜色のない強さと完成度をもつ作品だと思う。

はじめて『儀式』を観たのが何時だったか忘れたが、その時には、これは当然アンゲロプロスの影響下でつくられているのだろうと思って観ていた。だけど後になって、『旅芸人の記録』(1975年)だけでなく『1936年の日々』(1972年)よりもはやいのだと気づいた時、とても驚いて、大島渚マジですげえと思ったのだった。

(紀元節復活反対のデモの日とその翌日の話なので、『日本春歌考』の作中の日付は---おそらく1966年の---2月11日と12日となる。この日を舞台とするというところにまず政治的な意図があり、また、軍歌に対して春歌(よさほい節)をもってくるところにもまた、政治的な意図がある。さらに「軍歌VSよさほい節(どちらも日本・男性)」に対して、朝鮮人娼婦の歌である「満鉄小唄」で対抗させるところにも意図がある。吉田日出子が「満鉄小唄」を歌った瞬間に映画の空気ががらっと変わってひっくり返るところがすごい。ここは吉田日出子の表現力に依っている。そして、いわゆるリア充の若者の象徴としてフォークソングがでてくる。この場面の夜の水辺の舞台の空間造形---と、冬の夜の空気感---がすばらしい。ここでも吉田日出子は歌で抵抗するがリア充たちにもてあそばれる。このように、闘争、抵抗、階級はあくまで歌合戦という形で表現化されるのだが、ラストにいきなり小山明子の演説がはじまり「言葉で言い切って」ぶった切るように映画が終わるのにちょっとびっくりする。)