2020-03-28

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第12話。いい最終回だった。

コタキ家の間取りがよく分かった。コタキ家は、かなり古いタイプの木造平屋建ての家にみえるのだが、キッチンとダイニング(というより、台所と食事室というべきか)の関係が、わりと新しめの(この建物が建てられた時代にはなかったような)オープンキッチンみたいな作りになっていて、その部分だけ後からリフォームしてつくりかえた感がある。キッチンとダイニングとが、半ば仕切られつつも半ばつながっているというこの空間のあり方(そして、ダイニングを緩衝空間として、二つの古い感じの和室が「くの字型」に繋がっている)が、演出上かなり効いている。キッチンの奥(庭の反対側)に勝手口があり、勝手口から出ると、敷地の一番奥まったところに物置があるという配置も古い家っぽく、この感じも演出でうまく生かされている。つまり、古い家にはそぐわないオープンキッチンの空間が、古い家の空間の様々な部屋や要素を媒介しつつ分節するという役割を上手く担っているように思った。

●この物語を貫く芯となるのは、まず、兄(古舘寛治)と弟(滝藤賢一)の関係であるが、それとは別に、進行中の出来事として弟と奥さん(中村優子)との離婚の危機とその回避があり、芳根京子北浦愛という若い同性カップルの(親の不理解による)破綻と復縁の過程がある。さらに、芳根京子がコタキ兄弟の異母妹であるという事実が発覚し、三人の「きょうだい」の関係の背後にある父(小林薫)の存在が浮上する。基本的には一話完結のドラマだが、全体を通して、夫婦(滝藤賢一中村優子)、カップル(芳根京子北浦愛)、兄弟(古舘寛治滝藤賢一)の関係修復過程として進行していく。とはいえ、物語の中盤過ぎまでは、兄と弟の関係、弟と奥さんとの関係の変化の過程が主に描かれ、(兄弟と芳根京子とは喫茶店の客と店員という薄い関係性であり)異母妹、同性カップル、父、といった問題は、8話以降になってから急激に顕在化し、それにより、それまでの物語(関係)の図柄が大きく塗り替えられていく。

芳根京子は物語の途中までは、あくまで傍観者であり、コタキ兄弟という駄目なおやじたちに対して冷静なツッコミ(駄目出し)を入れたり、的確にフォローしたりする存在であった。ここにあるのは「しっかりした若者(ツッコミ)」にたしなめられ、助けられる「駄目なおやじたち(ボケ)」という構図であろう。しかしそれが8話になって変化する。芳根京子は、同棲していた同性の恋人と(相手の親の無理解から)別かれざるを得なくなり、居場所を失った彼女は彷徨ううちに、幼い頃に亡くなってしまった父が好きだった喫茶店に行き着きそこを「仮の居場所」とする、が、気持ちはまだ揺れていること、もし自分が男性であったらこんなことにはならなかったのではないかと考えたりし(「レンタルおやじ」は成立しても「レンタルお姉さん」が成立しないという男女の非可換性に理不尽を感じたりする)、しかし、本当は男性になりたいのではなく女性として女性が好きなだけだと思っていることなどを語り始める。つまり彼女もまた(当然だが)、駄目なおやじたちと同様に「重たい問題」を抱えていることが開示される。道に迷っているのは無職のおやじたちだけではなかった。

ここでの彼女の「語り」が「亡き父」に向けられていることは重要だ。彼女にとって「父」は、高いところから見守ってくれているような、自分を支える大きな存在だ。しかしその「父」とまったく同じ父が、コタキ兄弟の父でもある(芳根京子は母から父は死んだと言われているが実は生きている)。コタキ兄弟にとって父は最低の父であり、しかももはやボケてしまって「最低であったこと(怒りの宛先としての悪役)」を引き受けることすらできなくなっている。コタキ兄弟が芳根京子に自分たちの異母妹であることを告げられないのは、彼女にとって心の支えでもある「大きな父」が実は最低の父であったことを知らせたくないからだ。

亡くなった父を大きな存在として感じている芳根京子と、その父が最低の男でまだ生きていると知っているコタキ兄弟。芳根京子を自分たちの異母妹だと知っているコタキ兄弟と、コタキ兄弟はただ店の客だとしか思っていない芳根京子。三人の間にあるこのような情報格差が、そして「レンタルおやじ」の仕事を通じて兄弟が経験する様々な事柄による認識の変化が、「しっかりした若者(ツッコミ)」と「駄目なおやじたち(ボケ)」という固定的な関係を少しずつ動かしていく。そして(11話で)、芳根京子が同性愛者であることを知った時の、兄の不適切な言動、それに対する反省、学習、そしてその後の行為によって、三人の関係は決定的に変化する。つまりここで、兄の失敗(そしてその失敗に対するアクション)が、三人の関係をより強いものにする。この「失敗」がなければ、最終話で芳根京子がコタキ家に訪れるという展開はあり得なかっただろう(弟による「適切な態度」だけだったら、三人の関係は変わらないままだろう)。

●もはや中年であるコタキ兄弟において「(最低の)父」は、受け入れることが困難だが捨てることも出来ない大きな「重石」として存在する。しかし、まだ二十代の芳根京子北浦愛カップルにおいて(北浦愛の)「(無理解な)親」は、自分たちの人生を生きるために「捨てる」べき存在である。兄がその旨を口にし、芳根京子北浦愛カップルの背中を押した時、しっかりした若者にたしなめられ、助けられる駄目なおやじというこれまでの構図の反転が起こり、年長者としての責任をはじめて果たすことができたと言える。ここでの兄の発言は、社会的に上げ底されたおやじの上から目線の言葉とはまったく異なるものとなっている。

●異母妹であることを告げられないコタキ兄弟は、芳根京子をコタキ家に招き、「きょうだいという設定」、で一晩を過ごし、きょうだいを演じることで自分たちの望みをせめていっとき、虚構的なレベルで叶えようとする。この、嘘として演じられた、嘘のように幸福な一晩が終わってしまおうとするその直前に、芳根京子とコタキ兄弟の間に、「血のつながり」よりも重要なつながりがあったのだということが開示されて物語は終わりを迎える(この事実は視聴者には既に開示されているのだが、登場人物にはここではじめて開示される)。

血のつながり(一方的な情報の非対称性)よりも重要なつながりである過去の出来事(記憶)が、三人の間に共有される。