2020-03-21

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第11話。今回は、あまりひねっていない、ストレートな「啓蒙」回だと思った。芳根京子北浦愛の関係については、それほど深く掘り下げられてはいないし、特に工夫が凝らされているという程ではない。ここで重要なのはあくまで、その「関係」を知った「おやじ(古舘寛治)」の(不適切な)反応と学習と反省(悔恨)の方だろう。ドラマのウェイトは、女性同士の関係にあるよりも、それを受け止める(受け止められない)おやじの側により強くかかっている。

芳根京子に対する古舘寛治の態度は、確かに芳根京子を傷つける(あるいは、強く圧迫する)ものであろう。だが、古舘寛治にあるのは悪意や差別やヘイトの感情ではなく、たんに無知と認識不足だ。無知であることこそが罪なのだと言うこともできるし、それも間違ってはいないだろう(実際に芳根京子を傷つけた)。しかし、すべてを完璧に知っている人はいないし、あらゆる場面で正しく振る舞えるという人もいない。

古舘寛治は無知で認識不足ではあるが、自分が何か決定的に間違ったとこをしてしまったと察する能力はある。そして、落ち込みと学習の過程があり、悔恨に至る。これがまさに「蒙を啓かれる」過程であろう。それはつまり、古舘寛治はこれまで、この問題について蒙を啓かれる機会に(たまたま)恵まれていなかったということを意味する。同じ「おやじ」でも、弟の滝藤賢一には娘がいる---さらに奥さんが教師である---ため、この問題について考える(蒙を啓かれる)機会が既に与えられていた。これはあくまで、「たまたま」そうであったに過ぎず、問題の種類によっては二人の立場は逆転し得る(正しく振る舞えるかどうかは相対的な問題だ)。

古舘寛治には今回(幸運にも)「蒙を啓かれる」ための機会が与えられ、彼にはそれについて学び、それを受け入れる柔軟さがあった。だが、それと引き換えに芳根京子に圧力をかけ、傷つけることになってしまった。古舘寛治は悔恨し、おやじ兄弟はそのあがないとして行為を起こし、芳根京子のあり様をありのまま肯定し、祝福し、その背中を押す。

おそらくこのドラマにおいて視聴者の多くは、芳根京子の側というよりも古舘寛治に近い側にいるだろう。というか、自分が「おやじ」側であることを(自分の無知や認識不足を)自覚させられる、というようにつくられているだろう。ドラマのウェイトがおやじの側にあるというのは、そのような意味でもある。つまり視聴者(の多く)もまた、とまどい、反省し、学習し、悔恨して、「蒙を啓かれ」、自分を変えるための機会を得る。11話が「啓蒙」回であるとは、そういう意味でもある。

●四月からTBSで、野木亜紀子オリジナル脚本の『MIU404』というドラマがはじまるらしい。製作は、基本的に『アンナチュラル』組みたいな感じらしい。楽しみだ。

https://www.tbs.co.jp/MIU404_TBS/