2020-03-22

●原稿、なんとか書けた。これで次の文芸誌の発売日までは、少し余裕のある時間が過ごせる(はず)。

●U-NEXTで『旅のおわり世界のはじまり』(黒沢清)を観た。面白かった。食い入るように観てしまった。

これまでの黒沢清の映画と違うと思うのは、この映画は前田敦子の映画であり、映画の出来の良し悪しを監督が前田敦子に預けているようにみえるところだ。それは勿論、どう転んでも最低限映画として成り立たせることができるという、自分の演出への自信があった上でのことだろうが、この映画が面白くなるのか、そうでもなくなるのかは、黒沢清が仕掛けたことに対して、前田敦子がどう応えるかにかかっているという意味で、最後のところを俳優に預けているように感じた。黒沢清は、いままで、そういう映画の作り方はしていなかったのではないか。

(様々な工夫や手練手管を駆使して俳優の良さを引きだそうとは当然するのだろうけど、作品の「要」となるところを俳優の---ある特定の俳優の---リアクションに預けるという感じはあまりなかったのではないか。)

この映画の企画自体が、前田敦子でなければ成り立たないというか、前田敦子の主演が決まっていたというところから、映画がはじまっているのではないか。これは、よく言えば、そこまで前田敦子を信頼しているということだが、別の言い方をすれば、俳優に対して強い圧をかけているということでもあると思う。

映画では往々にして、俳優に(悪い言い方をすればパワハラとも言えるような)強い圧をかけ、追い詰めて、そこから予想外の(あるいは密度のある)通常とは異なるリアクションを引き出して、それを撮るということが行われているように思う。だが(これはぼくの勝手な推測だが)黒沢清は、俳優に対して強い圧をかけるそのような映画の作り方を反面教師のようにしてきたところがあるのではないかと感じていた。

 (これも勝手な推測だが、黒沢清は多くの部分で---助監督としてその現場を経験した---俳優に強い圧をかける相米慎二の演出を反面教師にしているところがあるのではないか。)

でもこの映画には、これまで抑制されてきた黒沢清のサディスティックな欲望が、前田敦子という希有な存在によって誘発されて出てきた、みたいな感じられる瞬間がいくつもある。今までの黒沢清の映画では、登場人物が追い詰められていたとしても、それは俳優が追い詰められていることとは違うという感じなのだが---それは当然なのだが---この映画では、登場人物が追い詰められているということと、俳優が追い詰められているということが、ほとんど重なってみえる感じ。

撮影現場で監督が前田敦子に特別に厳しくしたとか、極端に負荷の大きいことを要求したとか、そういうレベルのことではおそらくなくて(だが、そういうレベルのことがまったくないとは言えないかもしれない、前田敦子は拷問のような遊具に三度も乗せられたりするし、わざわざ歩きにくそうなところを何度も歩かされ、交通量の多い道路の信号のないところをわざわざ渡らされたりするし、いかにも空気の薄そうな山頂で思いっきり歌わされたりする)、この映画の設定というか、企画それ自体が前田敦子に対する強い圧になっている感じ。設定や環境からしてキツいのだし、このキツさは、物語内の撮影クルーのせいではなく、この映画の監督であり脚本家である黒沢清によって仕込まれたものだ。それは、この映画の企画やあり様それ自体が、既に前田敦子への(「圧」としての)「演出」となっているということだと思う。こういう状況を仕込み、そこに追い込めば、前田敦子ならきっと魅力的なリアクションを返してくれるだろうということから、映画の基本的な枠組みが組み立てられているという感じがした、ということ。

(その手応えは『Seventh Code』の撮影の時に得ていたのではないか。)

その結果として、この映画では、黒沢清の「徴」よりも前田敦子の「徴」の方が強く出ているように感じられる場面も多くあり、それにより、黒沢清の映画としてはとても新鮮な感じになっていると思った。

(だがそれは---あくまで勝手な推測だが---黒沢清が反面教師としてきた相米慎二が、薬師丸ひろ子や、夏目雅子佐藤浩市や、斉藤由貴に対してやってきたことと、近いことを---形を変えてではあるが---やっているということでもあるのではないか。)

●この映画を観ていて想起させられたのはキアロスタミだった。前田敦子は、『友だちのうちはどこ?』のあの男の子みたいだと思った。

●ラストは、一瞬『ラ・パロマ』かとも思ったが、おそらくそうではなく『ドレミファ娘…』なのではないか。