●『トリュフォーの思春期』をDVDで。この映画は、テイタム・オニールとウォルター・マッソーの『がんばれベアーズ』を、地元の映画館に親に連れて行ってもらって観た時に、同時上映だった(1976年)。『がんばれベアーズ』が観たいと思って観に行った8歳か9歳だったぼくには、二本立てのもう一方の方に対する興味も知識も事前にはまったくなかった。当時のぼくには『がんばれベアーズ』は面白くてかなり満足した(というかハマった)のだが、その時、それと一緒にとても奇妙でヤバ目な映画を観た(なにか観てはいけないものを観た)という感触が記憶として残った。タイトルも憶えていなかったし、当然、監督のトリュフォーに関心が向くということもなかった。ただ、印象には残って、ずっと後になるまで、あの時に観た「あれ」は一体なんだったのだろうかということが、気になりつづけてはいた。
それからしばらくして(まだ小学生だったと思う)、土曜の夕方か日曜の昼間にたまたまテレビをつけたらやっていた映画が、『がんばれベアーズ』を観た時に一緒にやっていた「あの映画」だった。その時にはもう、ほとんど夢のような茫洋とした記憶になっていたから、「ああ、あの時に観た映画はちゃんと実在したんだ(妄想ではなかった)」という一種の驚きとしてその「不意の反復」を受け取った。これは確かに「あの感じ」だ、と。ただ、その時もタイトルなどを確認することはなかった(あるいは、確認してもすぐ忘れてしまったのかもしれない)。
『がんばれベアーズ』と同時上映だった、魅惑的であると同時に触れてはいけないヤバい感じを(軽い)トラウマ的に与えられた「あの映画」が、フランソワ・トリュフォーという監督がつくった『トリュフォーの思春期』という映画だと知ったのは、二十歳前後になって、たくさん映画を観るようになってからだった(二十歳くらいになっても「あの映画」のことは気になりつづけていた)。ただ、世界のなかに埋もれてあるようなマイナーなカルト映画だろうと思い込んでいたので、高名な監督の、それなりに有名な作品であったことはとても意外だった。
一方で『がんばれベアーズ』にハマりながらも、もう一方で『トリュフォーの思春期』から、奇妙でヤバい感じを、(固有名を介さずにも)その後もずっと忘れることがないくらいの強さで受け取っていた8歳か9歳の自分の感覚はなかなかのものだったのだと、改めて『トリュフォーの思春期』を観直して思ったのだった。