エリック・ロメール『獅子座』

エリック・ロメール『獅子座』をビデオで。ぼくがロメールの映画のなかで一番好きな長編第一作。ほぼ全編にわたって、鈍重そうな中年のおっさんが歩き回っているだけの映画。ロメール1920年生まれで、30年生まれのゴダールやシャブロル、32年生まれのトリュフォーなど、他のヌーヴェルヴァーグの作家よりも一回り近く年上で、『大人は判ってくれない』や『勝手にしやがれ』と同じ年(59年)につくられているこのデビュー作が、トリュフォー(少年)やゴダール(青年)と違って「中年」を主人公としているのは、この時点でのロメール自身の年齢を反映しているのだろう。来年40歳になるというこの主人公の年齢は、この映画をつくった時のロメールの年齢と同じだ。(そして、ぼくの今の年齢とも同じだ。)ぼくがこの映画をはじめて観たのがいつだったか忘れたけど、おそらく二十代だったはずで、はじめて観た時から大好きだったのだけど、その時と今とでは、何というか観ていてこちらに迫って来る「重さ」が違う。(ごく単純に「お話」の次元で人ごとではないというか、身につまされる。)
この映画の主人公は音楽家で、それも「今まで音楽で食えたことなど一度もない」と言っているような音楽家で、しかし、まわりにいる、インテリでそれなりに良い生活をしている友人たちにたかりながら、結構気楽に暮らしている。ある日、金持ちの叔母が死んで遺産を相続出来るという知らせが届き、前祝いに、なけなしの有り金(といっても、これも友人からたかったものだ)全てをはたいて前祝いをする。しかし結局遺産は相続できず、しかも住んでいるアパートも追い出され、頼りの友人たちは皆、バカンスに出かけているか、長期の海外出張に出ていて、金を借りることも出来ず、着の身着のまま、文無しで、真夏の強い光りの射すパリの町へと放り出される。金もなく、知り合いもいなくて、夜露をしのぐ場所もない。主人公の男は、何のあてもなく、仕方なくただひたすらバリの町をさまようことになる。もともと、有名人でも「堅気」でもない男だが、住所、お金、知り合い(への連絡経路)、を失うことで、まったくの「なにものでもない者」になり、そうなるともう、どのようにも、社会に、パリの町で動いている様々なシステムに、アクセスすることが出来なくなってしまう。それでも何とか、チンピラ風の知り合いを見つけ、「危ない仕事」を世話してもらうのだが、結局あてが外れ、しかも帰りの地下鉄の切符をなくしてしまい、炎天下の町をただひたすら歩くはめになる。そのあたりから男は本格的に「なにものでもない者」となり、目的もなくあてもなく歩きつづけるしかなくて、その時彼にとってなじみ深いものであったバリの風景が、まったく違ったものとなってあらわれることになる。社会的な、人間的な(物語的な)関係の網の目からこぼれ落ちたこの男のよるべない彷徨は、ある意味でロッセリーニの『ドイツ零年』の少年の彷徨と同一のものだ。しかしこの男は、既に前髪が後退し、中年太りの重たい身体をひきずる四十男であり、無精髭をはやし、一着しかないシャツを汗だくにし、靴の底も抜け、しかもズボンにはオイルサーディンの油をこぼしたシミまでついている。それは少年のような天使的な軽やかさをもたず、ひたすら鈍重で、だからこそより一層苛烈であるようにみえる。あらゆる関係の網の目から抜け出したとしても、自らの身体の重さや、蓄積された疲労や記憶からは抜け出ることが出来ない。この、一目で汚らしく鬱陶しい見かけの(そしておそらくかなり臭う)男は、バリの人たちにとっては存在しないも同然なのだ。しかしこの、存在しないも同然になったことによって現れる風景の、何と新鮮で強烈なことだろうか。そこにアクセスすることができなくなることで、その(自分からは切り離されてしまった)風景が、そこでその生々しい姿をあらわにする。それは今、目の前にあり、生々しくきらめいているにも関わらず、どのようにしてもそこへは至れないようなものとして、あるいは、目の表面に貼り付いて引きはがすことが出来ないようなものとして、あるのだ。
風景というのが結局、私のナルシシズムの投影でしかなく(あるいは「私」の行動の目的や欲望に対して現れたたものでしかなく)、ただ「私」を表現するものでしかないとしたら、私が「なにものでもない者」へと墜落することによってはじめて、風景が、その「なにものでもない」側面を現すだろう。そして映画のフィルムはそれをこそ映し出す。主人公の行動が目的を失うことで、映像が(映像の連鎖が)自らを制御するタガを緩め、ひとつひとつのショットの目的が定かでなくなる時、風景は気味悪くでろっとひろがり、別のものへと変質する。それは強烈で新鮮でキラキラしているが、決してうっとりと眺められるようなものではなく、光りのきらめきの切片の一つ一つがこちらの身に突き刺さってくるような、トゲトゲした、耐え難いにも関わらずそこから目が離せないようなものとなる。これはまったく官能的なものではない。むしろ官能を不可能にするようなものだ。(ロメールの映画としては例外的に、ここでは全く「エロ」が問題にされていない。)なにしろそれは、「私」がその風景に対してまったく何も手出しできない(アクセスできない)ことによって現れるものなのだから。ぼくは映画を観つつ、この風景に魅了されるが、それは奥歯をぎゅっと噛み締めてふんばりながらしか見られないような風景なのだ。(これは映画作品としての出来不出来とは別の問題だ。ぼくが知っている限り、リアリストを自認するロメールでもこの後、二度とこのような作品をつくっていない。)
「なにものでもない者」となるということは、たんに象徴的なもののなかでの位置を失うというだけのことではなく、(人間たちが共同してつくっている)「現実」に対するアクセスポイントを失ってしまうということで、それは身体の運動機能が失調してしまうのとほぼ同等の意味をもつ。男はひたすら歩くが、それは(人間たちにとっての)「現実」に対しては何ら働きかけることはなく、ただ幽霊がさまよっているようなものだ。そしてそのうち、靴の底が抜け、疲労も蓄積して、歩くことさえ困難になり、河べりでだらっと横になる。これは、『ドイツ零年』の少年が、あらゆる関係を断ち切って一人になり、「なにものでもない者」となることによって、あたかも自由になったかのように「遊ぶ」ことが可能になるのとは異なっている。男は、「遊ぶ」どころか、歩きたくもないのに、ただひたすら歩くことを強いられるばかりなのだ。
男はそのよるべない彷徨の果てに、一人の気のいい浮浪者にひろわれ、彼の仲間となる。男はそれによって自分の居場所を得て、つまり「なにものか」になり、そこで風景は安定する。そして男は、社会とのアクセスが可能になり、その身体も行動の可能性を回復する。そこでは男の鈍重ささえ「芸」として、カフェに集まる客たちへの働きかけと成りうるのだ。異様な風景は、気楽な音楽家から浮浪者へと移行するその間にあった、「なにものでもない者」である時にだけ浮上する。男がその安定した場所に満足していないとしても、安定は安定なのだ。(おとぎ話のようなラストは、映画を終わらせるためのものであり、どうでもよい。)
●今日の天気(06/11/04)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1104.html