2022/07/26

●『初恋の悪魔』を配信で観るためにhuluと再契約したら、なんとhuluでは青山真治の『Helpless』と『ユリイカ』を観ることが出来ると知って興奮した。

『Helpless』を観るのは何年振りだろうか。まず圧倒的に、90年代の日本映画のテクスチャーを感じた。おそらく、今では、どうやってもこの感じは出ないだろう。そして、こんなにあっさりした話だっけ、とも思った。脚本というレベルでは、若書きの習作の域を出るものではなく、たいして優れたものとは思えない。しかしそれが、こんなに力をもった映画になるのだ。

おそらく青山真治は、この映画を撮影し、編集するという行為のなかでなにかしらの決定的な変化が生じて、青山真治になったのだろう。それはただ青山真治の才能というだけでなく、主演が浅野忠信であったこと、撮影が田村正毅であったこと、北九州市で撮影されたこと(北九州市の風景が映っていること)など、さまざまな偶然の要素が折り重なって、それが起こったのだろう。たとえば、もし主演が浅野忠信でなかったら、すごく単純な「暴力衝動」映画になっていたのではないか、とすら思える。昭和天皇の死という含意はあるとしても、この物語からは、父の自殺を知って自棄になった青年が衝動的に暴れた(そして、父の亡霊に取りつかれたもう一人の男が自滅した)、という以上のことは読み取れない。

この映画の脚本というレベルを想定して考えると(出来上がった映画から遡行的に脚本を想像すると)、普通に撮ればだいたい4、50分くらいの映画になった脚本なのではないか。そして、50分の映画だとしたら、おそらくそんなに面白いものではなかっただろう。それが、約80分の映画として完成する。この、物語を語るには余計な30分がこの映画に力を与えたのだと思う(バイクの走行や風景の提示、長廻しによる宙づりの時間など)。

だが、たとえば「長廻し」による「時間の充実」を作り出す映画作家としての力量を示すという意味でなら、おそらく『チンピラ』とかを観た方が分かりやすい。この映画は立ち上がりからして、あきらかにダラッとしている。浅野忠信のバイクの走行はかなり長いし、あるいは、光石研門司港の駅に到着する一本前の、「光石研が乗っていない電車」をわざわざ見せたりする。事がなかなかはじまらないまま、じわじわした時間がしばらくつづく。ようやく何かがはじまりそうな気配をみせる、浅野忠信が喫茶店ナポリタンを食べる場面に至るまで、映画が始まってから10分くらいかかる(80分の映画の最初の10分がダラッとして何も起こらない)。この、ダラッとした10分が、映画の基調となるリズムをつくりだす。

(喫茶店でようなく「なにごとか」が起きるが、しかし、事が起きたからといってリズムが変わるわけでもない。)

時間はダラッと流れるし、人物(浅野忠信)の基本的にダラッとした動きだ。そこに、物語を適切に語るという意味では過剰な風景のテクスチャーが織り込まれる。浅野忠信は苛立っているようだが、その苛立ちは時間や空間を緊張させない。この後に起こる「喫茶スイートハウス」での暴力の爆発を予想させるものはこれといってみあたらない。

浅野忠信という俳優のつかみどころのなさは、この映画では決定的に重要だと思われる。彼は、自らの衝動に突き動かされて人を殺してしまうような人には見えない。彼は確かに、映画のはじめから苛立っているようだし、斉藤陽一郎への態度をみればかなり粗暴な人であることもみてとれる。しかし、苛立ちと飄々とした態度が同時に見て取れ、粗暴さと同時に柔らかな繊細さが見て取れる。装われた粗暴さの下には線の細さが残されており、そこからは、幼馴染みでヤクザである光石研ほどのとは切迫性を感じられない。

彼は一方で、自殺してしまう父や、自滅へ突き進んだ末に妹まで巻き沿いに死のうとする光石研の「身勝手さ」を批判し、光石の残した妹を引き受けようとする人物としてある。つまり、過去と現在を引き受けたうえで、「それ以降」を生きようとする者だ。しかしもう一方で彼は、父の自殺を知って自棄になり、苛立ちに任せて「喫茶スイートハウス」の夫婦(?)を撲殺する。この矛盾する要素が一人の人物として統合できているかのように見えるのは、この役を演じたのが浅野忠信だったからだろう。

映画の場面として、浅野が二人を撲殺するに至る「喫茶スイートハウス」の一連の場面の表現力はとても素晴らしく、全青山作品のなかでも最高の場面の一つだと思われる。この場面があるからこそ、多くの人がこの作品に驚愕したのだと思う。しかし同時に、この場面を演じる浅野忠信が、この場面の前や後の浅野忠信と、どうにもつながらないのも事実だと思う。

これは脚本上の明確な欠点だと思われるが、この映画の登場人物である浅野忠信(健二)が、喫茶店の二人を殺してしまったにもかかわらず、まるでそのことがなかったかのように(倫理的な問題を一切感じていないかのように)、映画のラストで光石研の妹(辻香緒里)と連れ立って颯爽と歩いていく、というのはどうも納得できない。これが、黒沢清の「一線をこえてしまった人(怪物)」ならば問題はないのだが、青山真治はここで浅野忠信をそのような「怪物」として描きたかったわけではないだろうし、実際、浅野忠信はそのような怪物には見えない(もちろん、だからこそ、この後に『ユリイカ』があり『サッドバケイション』があるわけだが)。

このような明確な欠点がありながらも、あたかもそんなことは取るに足りないことであるかのように、この映画はとても強いものとして存在している。この映画は、整った、あるいは力量をみせつける、ような作品ではなく、とても危ういバランスで成り立ち、しかしそのことで圧倒的な強さを獲得してしまった何かとしてあるように思った。