●昨日の日記では、言いたいことがうまく言えてない感じがあるので、ちょっと言い直してみる。青山真治の熱心なフォロワーではないので、雑な感じになってしまうかもしれないが。
青山真治には、実験的な作品や教育のために学生たちと作った短編などの作品が多くあり、それらをすべて観ているわけではないが、広く公開されている劇映画に限って言えば、『Helpless』(1996年)から『EUREKA』(2000年)までを初期、『月の砂漠』(2001年)から『サッドヴァケイション』(2007年)までを中期、そして『東京公園』(2011年)から『空に住む』(2020年)までを晩年と分けることが出来ると思う。初期の代表作が『EUREKA』で、晩年の代表作は『共喰い』(2013年)と言えるだろう。『EUREKA』は、誰が観てもすごいと思う映画だろうし、『共喰い』は、誰が観ても立派な映画だと言うだろう。正直、『共喰い』は好きではないが、そうだとしても、とても立派な映画であることは否定できない。初期は、勢いにのったイケイケ期で、晩年は(とっぽい感じがまったくなくなったわけではないとしても)立派な職人仕事をする職人期と言えるだろうと思う。
だが、中期にかんしては、賛否が分かれるというか、多くの人が首をかしげるような、変なことをやっていた時期と言えるだろう(実は、初期からVシネマでは相当変なことをやっているのだが)。『EUREKA』を観て称賛した人が『月の砂漠』を観て首をかしげるのは当然だし、『サッドヴァケイション』がいわゆる「北九州三部作」のなかで他の作品と感触が異なるとは誰もが感じることだろう。この時期、青山真治の熱心な支持者は、これこそがすばらしいのだと強く推したが、多くの人は「うーん」と思ったのではないか。ぼくは、同時代の観客としてこれらの映画を観ながら、「一部の信者に通じる電波」を発しているような感じに半ば反感を持ちながらも(初期作品への熱狂のようなものはなくなっていたが)、強く傾倒しない程度には面白さを感じてもいた。居丈高な態度の青山真治も、その周辺の人々も嫌だが、映画は普通に面白い、称賛する人たちに同調する気はないが、だからといって面白く思っていないわけではない。
そして、当然のように、青山真治のこの「偉そうな感じ」はずっとつづくのかと思っていた。それに対してぼくは、半ば反感を持ちながら、おそらくもう一方では期待してもいた。『サッドヴァケイション』の次も、偉そうな青山真治であるだろう、と、『サッドヴァケイション』をリアルタイムで観ていた時は当然のように思っていた。しかし、後から振り返ると、「偉そうな感じ」は『サッドヴァケイション』を最後に、途切れてしまった。
ここで途切れた、というのは結果的に言えることだ。たとえば中期においても『レイクサイドマーダーケース』のような職人仕事をしているので、『東京公園』が職人仕事だったとしても、それが大きな変化なのかは、その時点では分からない。しかし、結果として後から振り返ってみると、『サッドヴァケイション』以降の、三つの劇映画と二つのテレビドラマからは、中期の偉そうな(尖がった)感じは見て取れない。正確に言えば、その感じがまったくないわけではないが、かなり巧妙に隠され、抑制されている(マニアックな映画好きにしか分からないようなところでのみ、変なことをやっている)。
おそらく、昨日の日記を書くことで本当に言いたかったことは、「北九州三部作」の物語的な続きが途切れてしまったということよりも、この「中期の(とっぽい)感じ」が、これを最後に途切れるようになくなってしまったのだなあ、ということ(その感情・感嘆)だったのだと思う。
それと同時に、ぼく自身の青山真治への関心も、この時期から少しずつフェイドアウトしていったのだとも思う。青山真治の映画を、公開時に映画館で観たのは『サッドヴァケイション』が最後だったと思う。しかしその時には、それが最後だなどとはまったく思っていなくて、そういうことは、時間が経って、後から振り返る機会があった時に、はじめて自覚できる。
(『東京公園』は2011年の公開だが、ネットフリックスかU-NEXTで観た記憶がある。これらの配信会社と契約したのは2017年か18年だから、公開から6年以上経ってようやく観たことになる。『共喰い』はそれよりも早くレンタルDVDで観たはずだが、日記を検索してもヒットしないので、感想を書くことすらしていないのだろう。『空に住む』は亡くなったのを知ってから観た。テレビドラマは、『贖罪の奏鳴曲』も『金魚姫』も配信で観ている。前者は簡単な感想を日記に書いたが、後者は感想も書いていない。『サッドヴァケイション』をリアルタイムで---反感混じりで---観ているときは、こんなにも関心が離れてしまうことになるとは思っていなかったのだ。)
『贖罪の奏鳴曲』の感想