●『ヒネモステ』(柏田洋平)をDVDで観た(DVDは、17日の『亀』の上映の後のトークイベントに出ていた柏田さんから直接いただいた)。これもとても面白い。同じ年の、同じ大学という狭いところで、これほど充実していて、しかもまったく似ていない二本の映画(『亀』と『ヒネモステ』)がつくられたというのは驚くべきことではないかと思う。
●映画は、神社の境内のような場所で男が目を覚ますところから、実際に、目覚めた後に徐々に意識がはっきりしてゆくような、ゆったりとしたリズムで立ち上がる。男は、しばらくぼけっとして、ゆっくりと靴を履き、寒そうに股を擦ると、神社の階段をとぼとぼと降りて行く。もう一人、リュックを背負った男が登場し、高台の、さらにこんもりと土が盛られたところに上ってゆき、高いところからの風景を、手元の、地図のような紙切れと比べる。場面は急な斜面へと切り替わり、リュックの男が、時に足を滑らせそうになりながら、斜面をそろそろと降りてくる。風が強く吹き、風の音がたち、木々が揺れ、枯れ葉も舞っている。男は、斜面のなかほどで足をとめ、リッュクを降ろし、メガネを外すと、地面に横たわり、斜面をごろごろと回り転がって下ってゆく。地面の感触や斜面の角度を感じ取ろうとするかのように、男は何度かそれを繰り返す。足元の土は柔らかそうで、転がり下ってまた上る時に、男は何度も足をとられそうになる。神社で寝ていた男が背後から地面を滑り降りるようにしてあらわれ、転がっている男の様子をうかがい、男が横になって転がりはじめたタイミングで、男のリュックを奪って、斜面を駆け上って逃げて行く。しばらく地面に横たわったままだった男がゆっくり起きあがり、ようやくリュックが消えていることに気づき、リッュクのあった場所へとよろける足取りでゆっくりと歩いてゆく。そこに残されたメガネをひろって、かけ、呆然としたように立っている。
●映画は、はじめから最後までずっとこんな調子ですすんでゆく。この映画では、ある風景(土地、地形)があり、そこに(主に)二人の男の身体がある、という、それだけで成立しているような映画だと言える。神社で寝ていた男はおそらく家もなく、カネももっていない。リュックの男は、地図を手に歩きまわっていて、時々スケッチブックに色鉛筆で絵を描いているのだが、絵を描くために歩き回っているというわけでもなさそうだ。リュックの男は神社の男からリュックを奪い返すことに成功する。だがその後も、神社の男はリュックの男の後をなんとなくついてゆく。この映画の物語は、この二人の男が何日か、一緒にぶらぶら歩いているというだけのものだ。
●この映画が捉える土地は、地名をもたない。というか、ある特定の地名や地区を示すためのしるしを、この映画が捉える風景はもっていない。それは、郊外の住宅地であり、山のなかのダムであり、川原であり、海辺であって、具体的な「どこか」ではない。しかしそれは決して抽象化されたものではない。特定の地名をもった「どこか」ではないが、今、まさに目にしている「そこ」以外の場所ではないという具体性をもっている。どこでもない土地に、誰でもない男たちがいるのだが、しかしそれは、他ではない(現に今見えている)「そこ」であり、他ではない(現に今見えている)「彼ら」なのだ。この映画の時間も、そのようなものとしてある。「ある日」「次の日」「明くる日」など、具体的な日付をもたない(しかし冬であることは分かる)字幕によって仕切られた5日間がこの映画によって描かれる時間なのだが、それは、いつでもない「いつか」であると同時に、今、それを観ている具体的な「その時間」でもあるのだ。だから、この映画はとりあえず5日間の話として字幕で仕切られているのだが、山のなかのダムと海辺との位置関係や距離が(男が常に地図を参照しているにもかかわらず)この映画ではよく分からないのと同様に、「ある日」と「次の日」との時間的な距離も、実はよく分からないと言えるだろう。映画では、あるカットと、次のカットとの間にあるブランクの時間が、本当はどれくらいなのかが決して分からないのと同じように。ただ、この映画にあるのは、八十分という具体的な時間を支える、充実した持続であるということは言える。
●風景というのは視覚的なものだが、地形は視覚だけでは捉えきれない。例えば傾斜、あるいは地面の柔らかさや凹凸、今、立っている木に隠されて見えない、その後ろ側にあるもの、など、これらのものを捉え、ある地形を空間的イメージへと変換させ得るのは、そのなかで動く身体であろう。この映画が捉えようとしているのは、視覚的なものとしての風景ではなく、地形であり、身体の運動によって形成される空間的イメージなのだと思う。いや、地形-空間的イメージをきわだたせるために身体があるのか、身体の動きの豊かなバリエーションをみせるために様々な地形があるのか、それはどちらとも言えず、同時にどちらでもあるのだろう。ただ言えるのは、この映画はミニマリズムでもフォーマリズムでもないというこことだ。つまりそれは、まず最初に土地(地形)があり、そのなかにいる身体があって、次に、それをカメラや録音機がどう捉えるのか、という問題がくる、ということなのだと思われる。
●だから、ある土地-地形のなかを二人の男が歩いているだけといっても、けっして引き算によって出来ているような映画ではない。例えば技法的な視点からみても、端正な構図のロングショットもあれば、粗っぽい手持ちの感じもあり、望遠レンズで距離を潰したようなカットもあるし、人物の動きをズームで追うところもある。クローズアップを視線でつなぐかのようなモンタージュさえある。つまり、ミニマリズムでも原理主義でもなく、対象を捉える時の態度はきわめて柔軟で、むしろ無節操であるとさえ言えるかもしれない。この映画では、時々ハッとするようなカメラの位置の変化がある。例えば、湖を一人で見つめるリュックの男のところへ、水筒の中に何かを入れてきた神社の男が戻ってくるのだが、リュックの男はずっと湖を見るばかりで神社の男を無視しているという場面で、カメラがふいに逆の位置へと移動するのだが、この映画にはそのようなカメラの位置の移動があまりないのと、その絶妙のタイミングとに、あっと驚く。あるいは、リュックの男が、海辺で干してある大根を(おそらく)盗もうかどうしようか迷っていて、周囲を見回しているところで、ふっとしたタイミングで男のクローズアップへと切り替わるのだが、この呼吸には息をのんだ。
●だが勿論、技法的な多彩さがこの映画の豊かさを支えているわけではないだろう。例えば、リュックの男が、飯盒で焚いた米を、神社の男にも食べさせるために飯盒の蓋にご飯を分けて盛る場面での、炊きたてのご飯の湯気のたつおいしそうな表情とか、川原で、料理する男(『亀』の池田監督)とその男を描いているリュックの男とが、ちょっと離れた距離で向かい合っているのだが、料理する男がリュックの男にみかんを渡そうとして、そこに微妙に距離があるので、無理な姿勢で手を伸ばしたリュックの男が軽く姿勢を崩すときの、その「ヨロッ」という感じとか(このリュックの男は、けっこういろんなところで「足をとられる」のだった)、同じ川原で神社の男が、コンロの火を細い枝に移して、その枝からまた別の枝に火を移そうとする時の、なかなか火がつかないもどかしい感じとか、そのような細かい動きや描写が丁寧でリアルであることが、この映画の(決して引き算ではない)豊かさを支えているように思った。