●お知らせ。国立新美術館でやっている「与えられた形象」展についてのレビューを書きました。明日、10月5日付の東京新聞、夕刊に掲載される予定です。
●9日のジュンク堂でのイベントのための写真を選びながら思ったのだけど、今、ぼくが写真としてやっていることは、今、使っている「この携帯」のカメラ機能を前提としていて、例えば、機種を変えて、アイフォンとかにしたとすると(そんな予定はまったくないけど)、画像の解像度やシャープさなどの画質から、撮影する動作まで、いろいろ大きくことなるだろうから、今までやってきたこと、そこで掴んだカンや技術等はいったん御破算になって、その機種として出来る、またちょっと別のことを探すことになるだろう。結局、デジタル写真はカメラ(および出力装置)のフォーマットの変動に大きく依存する。
そこには、大げさに言うならば古典的なフォーマットとデジタルなフォーマットの基本的な違いがあるように思われる。例えば、油絵具によって絵を描くという行為は、15世紀にファン・エイクによって完成され、その後、様々な技術革新はあったとしても、基本フォーマットは今でも変わっていない。ファン・エイクの細密描写も、カンディンスキーモンドリアンの抽象画も、そして例えば今、国立新美術館に展示されている現代の画家である辰野登恵子の作品(の半分、半分はアクリル絵の具で描かれている)も、同じ油絵具で描かれた、同じ油絵であるという点では、同じフォーマットの上にある。そしてそのような安定が、無意識的というか、身体的な、潜在的な層での、多世紀にもわたる(油絵具で描くという)技術的蓄積を可能にする。おそらくこのことは、フィルムカメラで写真を撮るという行為でも同様なのではないだろうか。カメラやレンズやフィルムの技術革新があったとしても、それらを貫く共通するフォーマット(あるいは撮影する身体)は、いったんそのメディアとしての完成形に落ち着けば、基本的には変わらずある、のではないか。完成してしまえば、(社会的に)滅びることはあっても、かわることはない。
対してデジタルなフォーマットは、新たな技術革新の度に、いやもっといえば、新製品が現れる度に、技術の再編成が起こり、蓄積されたもののシャッフルが生じる。何か、潜在的な層まで含めたもの(蓄積−身体)が、その都度いったん御破算になるという感じがあるように思う。一般的に適当な落としどころとしての完成形には決して行き着かないという、とりとめのない感じがある。デジタル機器は制作の技術的身体にとって常に仮の宿であり、定住地にはならない(職人を不可能にする)。だがここでは、そのことの良い悪いを言いたいのではない。
例えば、シンセサイザーのキーボードがピアノの鍵盤と同じ配列であるのは社会的な因習の問題(ピアノという、一つの完成形にたどり着いた古典的フォーマットの強さを社会的なインターフェイスとして利用している、ということ)でしかなく、シンセサイザー(という呼び名自体がもう決定的に古いけど)自身にとって本質的なことではまったくない。コンピュータで音楽をつくり演奏するのに、ピアノの鍵盤の配列は必須ではない。つくり、演奏する人とコンピュータとのインターフェイスは、それをつくる人ごとに異なる、様々なあり様が可能であろう。デジタル的なテクノロジーは原理上無限にある可能性の実現を可能にする。しかし一方で、その多様性、あまりの自由度の高さ、非安定性が、とりとめのなさともなり、逆説的に、安定的な(汎用性のある)、古典期、西洋的な音楽理論音楽史的文脈の優位を際立たせてしまったりもするのではないか。つまり、あまりに多様なので、それらを翻訳して並置することを可能にする共通言語(共通する座標、あるいは貨幣)が改めて求められ(頼りにされて)てしまう。このようにしてあらわれる逆説的な古典・歴史(メジャー)という統一的説明原理への信頼は、あまり愉快なこととは言えない(とはいえ、ただ多様性を寿げば上手くゆくということにはならない)。
つまりここで言いたいのは、多様性と自由度の高さ(適当な落としどころがなく、いくらでも技術革新が可能であること)、それにともなう身体的、無意識的な技術の蓄積の困難と、その走行の非安定化に対して、かえって共通言語(メジャー)が要請されてしまうという反動性への疑問だ。
ここで必要なのは、共通言語ではなく、変換技法なのだと思う。a、b、c、d、という異なる四つの体系(あるいは身体の組成)があった時、それらを共通して比べられるメタ体系(メタ身体)「A」が要請されるのではなく、aをbへと変換し、cをdへと変換し、そのdをまたaへと変換するという風に、互いが互いを映し合うようにして、その都度、相互に変換し合うことのできる変換技術こそが問われるのではないか(その時歴史は、歴史−物語ではなく、歴史−ダイヤグラムとなるだろう)。
このような変換技術は、個々の体系、a、b、c、d、それぞれどの内部での「正しさ(法)」よって導かれるのでもないし、その外にあるメタ体系「A」としての「正しさ」のなかから導かれるのでもない。どこにも属さない相互関係としての変換法則は、どこか特定の体系内では「胡散臭いもの」としてしかあらわれないように思われる。アナロジーという語をおもいきり拡大解釈して、このような(世界の内部にはどこにも根拠が存在しない、胡散臭い)変換技法をアナロジー的な身体として考えることは出来ないだろうか。アナロジー的身体は、世界内には存在の根拠がないことによって、常に胡散臭いが、必須である、と。
ぼくにとって写真を撮るという行為はそういうことに繋がるのではないかと思った。一方に、ある程度の深さと重層性と安定性をもった身体があり(やはりこれは必要だと思う)、だがもう一方に、ひたすら変換のみによって存在するアナロジー的身体があり、ぼくにとって写真は後者についてのエクササイズである、のではないかと。それはあくまで素人芸にとどまり、決して「ちゃんとしたもの(結果)」を目指さないが(だがそれはヘタウマとは根本的に違う)、それが変換技法であるということが重要だ、と。
これは言い訳でも謙遜でもない。