●『ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン)をDVDで。前半は完璧に素晴らしく、ただ唖然として画面を眺めていたけど、後半はイマイチという風に感じてしまった。イマイチというのは言い過ぎか。
最初に少年と少女の駆け落ちがあって、二人が連れ戻され、女の子と両親、男の子と孤独な警官のやり取りがある、という辺りまでは本当に素晴らしいのだけど、二度目の脱出以降の展開が、ぼくにはどうしても蛇足のように感じられてしまう。
前半は純粋に「子供たち」にとっての世界で、完璧に制御されたスタイルで語られるのだけど、二人が連れ戻された後は、子供たち(あるいは子供たちの世界)に対して「大人はどうするのか」という話がそこに絡んでくる。前半は、スタイルと主題と物語とか高い精度で一致しているのだけど、「大人」が絡むようになると、スタイルと内容とに齟齬が生じてくる。しかしそこで齟齬が生じるのは当然で(前半はまさに「子供たちだけの世界」だからこそ成り立っていた)、その形式上の齟齬がじわじわ出てくるところがまた素晴らしくて、さすがウェス・アンダーソンだと思っていたら、二度目の脱出から先の展開は、前半から持ち越されたスタイルによってその齟齬が無理に抑え込まれた(外側から型付けした)という感じになってしまう。
一度目の駆け落ちの展開は、完璧に制御された形式とリアリティとが両立していたと思うのだけど、二度目の脱出以降は、その制御されたスタイルが、それは嘘でしょうというような絵空事に感じられるようになってしまった。孤立した男の子や女の子をそのままにするのではなく、(反目していた)仲間たちが彼らを助けるために立ち上がるという展開はうつくしいのだけど、それが結果として、子供たちが苦悩しているのと同時に、大人たちも苦悩しているのだという(純粋に「子供たちの世界」から、「大人たちもそこに含まれる世界」へと、じわじわ広がってゆく)中盤までのリアリティを裏切ってしまっているように思えた。前半の二人の気持ちのリアリティが、分かり易い「型」の力に負けてしまったような気もしてしまう。
二度目の脱出において、子供たちの世界をうつくしく(あるいは単純に)し過ぎたために、それによって大人たちの世界(のリアリティ)とのつながりを失わせてしまったということなのだろうか。だが、子供たちの改心が、孤独なブルース・ウィリスの決心を導いたとはいえるかもしれないのだけど。
ただ、二度目の脱出以降が蛇足であると感じるのは、クライマックスとして仕掛けられた「嵐」が作品上であまり上手く機能していないせいもあるのかもしれない。ウェス・アンダーソンも、こういうの(「嵐」のような天災の演出)はあまり上手くないのかな、とも思った。そのために、前半と比べてややテンションが落ちて、(あまりに完璧過ぎた前半と比べると)リアリティが損なわれたように感じてしまったというだけのことなのかもしれない。
いや、でも途中までは完璧に素晴らしかった。カナブン(?)と釣り針でつくったピアスとか、素晴らしすぎる。その他にもいちいちいろいろ素晴らし過ぎる。
●『パーフェクトフレンド』。野粼まど五作目。正直、少しばかりうんざりしながら読んだし、最後はそこかよ、と、がくっときてしまった。けっきょく、五作あわせて『2』への前ふりでしかないということなのか、と思ってしまった。(以下、ネタバレします)それに、「感情の無い小学生」に「友達」を教えるという今作の話は、「人工知能」に「小説(主にキャラクター)」を教えるという前作と、「ネタ」としてほぼ同じものの使い回しではないのか(この作家にとって作品---例えば『[映]アムリタ』における映画---とは一貫して「教える」ためのメディアで、「教える」とはつまりその人のアイデンティティを「書き換える」ということなのだろうということは理解できるけど)。母=開発者と娘=AIみたいな関係もこの二作では被っている。最後に、視点が「教える」側から「教わる」側に移行するという点のみが、今作に新たに付け加えられたところだけど(まあ、「無限」の話とかもあるけど)、それも十分には展開されず、次へと持ち越し、みたいな感じだし。
『know』が面白かったのでここまで引っ張られたけど、ここでやめるべきなのか、次を読むべきなのか、迷う。