●『次の朝は他人』(ホン・サンス)をDVDで。何なのだろうかこれは。すごく不思議な映画だ。映画のなかで雪が降っているということが、こんなにすごいことなのか。ホン・サンスがこんなにうつくしい映画を撮るのか、と少し驚いた。ホン・サンスの映画以外の何ものでもないのと同時に、今までにない新境地であるような作品。つくづく、計り知れないと言うか、つかみどころのない才能だと思った。下世話な『ストレンジャー・ザン・パラダイス』、という言葉が頭に浮かんだ。
トーキョーワンダーサイト池田剛介の作品が面白かった。シンプルで明快なのだけど、複雑で繊細。シンプルな装置による複雑な効果、というか。中二階みたいな展示場所もよかった。「ホメオスタシス」という作品にしばらく釘付けになってしまった。回転するメタリックなボウルのようなもののなかで、八つの、仁丹くらいの大きさの銀色の金属の玉が転がり続けているという、それだけのすごく単純な装置なのだけど、そのなかに自分の存在が閉じ込められてしまうような感じがした。
せいぜい直径二、三十センチというその小ささ。金属の器のなかで金属の玉が転がる摩擦感。金属同士が擦れる耳につく---感覚を軽く引っ掻くような---音。開かれつつも閉じられたシステム(外からの干渉がなければ、玉は永遠にボウル状のものの内側に閉じ込められて回転しつづける、しかし、干渉はあまりに容易で、その装置を壊すには強く息を吹きかけるだけで十分だろうという意味においては、崩壊(環境)に対して開かれた、無防備で脆弱なシステム)。そして、メタリックのボウルは、部屋やその作品を観る人を内側に閉じ込めるように凹んだその表面に映し出す。八つの玉は、二つと六つ、三つと五つ、という風に二つに分かれそうになり、しかしすぐまた八つがまとまった群れとなる、という風に動いている(先行する玉は常に少数---二か三---で、残りの六や五が遅れてそれに追いつく)。ボウル状のものはゆっくりと、しかし滑らかに回転しているが、玉の群れはぎくしゃくと、あるいはランダムに動く(摩擦の効果)。
完全に制御された運動(ボウル状のものの回転)と、その内部に閉じ込められた玉たちの、(極度に制限されていながらも)最もミニマルな形での有機性を感じさせるような動きの対比。そしてその装置が、メタリックな表情に統一されている(つまり表情が強く抑制されている)こと。それらによってこの装置は、最も縮減された世界のモデルであるように感じられ、しかしその抽象性は、金属的な輝きによって感覚的に尖った(感覚に刺さる、あるいは感覚を引っ掻くような)生々しさをもつ。そしてその装置は、装置自らが世界の表象をもつかのように、その場を、そして「わたし」を、凹んだ内側に映しだす。
そのような装置を中腰で覗き込む「わたし」は、覗き込んでいるのは「わたし」ではなく「装置」の方で、この装置こそが、わたしを含むこの世界全体を覗いているかのような倒錯した錯覚に捉えられる(しかしこの錯覚は強い感覚的実質をもつ)。この装置の凹んだ内側にぼやけて映されているものこそが実在する世界(そしてわたし)であり、「こちら側」はすべて仮象に過ぎないのではないかという感覚。そして、「そのこと」を感じている「わたし」がいるのは、こちら側なのか向こう側なのか、定かではなくなる。
つまりこの装置は、たんに縮約された世界のモデルであるだけでなく、その形態、質感、運動などによって、こちらと向こうを隔てる境界となり、こちらと向こうを反転させることで、わたしを、わたしのいる側の世界を、その装置内に閉じ込めてしまうかのように感じられる。
このような感じ方は、おそらく作者の意図からはズレているのだろうとは思う。