●これは昨日撮った。





●モノとコトとの違いを、関係を対象化すること(そのような方向性)と、対象を関係化すること(そのような方向性)、という風に考えることもできる。そう考えれば、それらはコインの裏表のように切り離せないことになる。
例えば「げんしけん」にでてくるキャラにおけるBL的な欲望(妄想)では、波戸くんが攻めで斑目先輩が受けであることを「ハト×マダ」と表現し、斑目攻めで波戸受けの「マダ×ハト」とは別物として認識される(これは非可換だ)。波戸くんと斑目先輩のカップリングという点では変わりない「ハト×マダ」と「マダ×ハト」が別物であるということは、特定の関係性が、ある固有性を有するものとして捉えられているということだろう。構成要素が同じであるにもかかわらず、「ハト×マダ」と「マダ×ハト」とは(いわば「ドラえもん」と「のび太」のように)別のキャラだということだ。関係がキャラ化している。もし、実際に波戸くんと斑目先輩がそのような関係にあるとしたら、時と場合によって、ハト×マダであることも、マダ×ハトであることも、どちらでもない曖昧な感じであることもあり、それは常に流動的であるはずだ。関係は常に移りゆく。しかしそれをフィックスしてモノ(対象)としてとらえる(レッテルを貼る)ことを、我々はしばしば行う。要するにモノとは関係が対象化されたもののことだ。
逆に、対象の関係化というのもあるだろう。同じAという人であっても、状況Bのなかにいる時と状況Cのなかにいる時とでは異なる判断や行動の傾向をみせるだろうし、相手Dと相手Eとで、対人的性格が変化することもあるだろう。あるいは、赤の隣にあるオレンジと、青の隣にあるオレンジとでは、同じチューブから出した絵の具だとしても画面上での色としての機能が変わる。つまり、一つの個(モノ)を固定されたものとして捉えるのではなく、関係を構成するものの一部として捉える。固有名として対象化されていたAさんの固有性は、文脈(関係)B、C、D、Eとの接続へと、それぞれ解体され、流動性のなかへ、関係の一項へと帰される。Aさんはもはや一人の人ではなく、四つの流れが重なるところに仮留めされた点でしかなくなる。斑目先輩という一人のキャラは、「ハト×マダ」「ササ×マダ」「クチ×マダ」という関係の一項でしかなく、それぞれ別の線(別の関係)へと開かれていて、動いてゆく。
ただ、ここでややこしいのだけど、Aさんを点として(関係の結節点として)捉えることはすでに関係の対象化である(それは、雲のように確率的に分布する電子の「位置」を---速度を犠牲にすることによって---捉えることと似ている)。様々な文脈がそこにおいて重なり、異なる文脈の落差を吸収するような結節点としての個(対象)を考えなければ、流れ(関係)は曖昧な霧や空気のような茫洋としたものとしてしか捉えられない。つまり、関係を考えるためには対象化(結節点)が必要である。固有名は確定記述には還元されないと言うが、逆に、固有名によって複数の(落差や矛盾をもつ)記述が束ねられると考えることができる(「ドラえもん」「のび太」が固有名であるように、「ハト×マダ」「マダ×ハト」もまた固有名---関係性の固有名---と言える)。しかし対象化されたものは、関係へと再度解体されなければ固着したブラックボックスと化す。対象化された関係性は、常に流れ変化する関係から零れ落ちたものに過ぎず、その動きを捉えられない(位置を測定した電子の速度が確定できないように)。理屈や定義にこだわり過ぎると流れに乗れず空気の変化を読めなくなるように、対象化されたものに固着すると世界を見失う。
関係を対象化し、対象を関係化する。地のなかから図が浮かび上がり、図と図との関係が地をつくりだす。徴候を索引化し、索引を徴候化する。このようなダイナミックな動きを媒介するものとして、例えば郡司ペギオ-幸夫は「能動的受動性」と「受動的能動性」という概念を考える。
関係の対象化は、それまで曖昧な気配や空気としてしかとらえられなかったものに形を与え、明確に、論理的に捉えられるようにする。しかしそれは、本来流動的である関係を(ある瞬間のスナップショットとして、あるいは、ある抽象的操作によって)固着化し、固定化することだ。それは流れを淀ませ、なめらかに流れることを阻害する。ただ、関係の対象化は、対象化(モノ化)されたものに(環境とは切り離された)「内部」をつくりだし、環境に対するある一時的な「猶予(保留)」を、あるいは環境に「隙間」をつくり出すだろう。モノは実体であるというよりはむしろ隙間である。モノとは関係のなかに生じた遅れ(固着・淀み)であり隙間であるが、その遅れや隙間こそが「深さ」を持ち、関係や流れを変化させる力をもつ(可能性がある)。
空気としか言いようのない何かが直観的に掴まれ、そこにレッテルが貼られて対象化されること。そこで対象化されたもの同士が新たな繋がりや相互作用を模索すること。その対象たちの関係が十分以上に複雑になり、対象化されたものの群れが再び(新たな)空気となること。そしてその空気が直観的に掴まれ、改めてレッテルを貼られて別の形で対象化すること。そしてまた……。
●関係を対象化し、対象を関係化するということは、いわば世界の裏表をひっくり返し、さらにまたひっくり返すことを繰り返すようなことだ。そしてその「ひっくり返り」が起こる媒介として、二人称的な場があるのではないかと思う。