●ツタヤに立ち寄ったら、ホン・サンスの『自由が丘で』が新作として出ていたので、借りてきて観た(今年の一月にシネマート新宿で観ている)。すごく面白いのだけど、この映画のなにがそんなに面白いのかを示すのは難しい。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150106
改めて思ったのだけど、この映画は韓国語の分からない「モリさん」が主人公なので、台詞のほとんどが英語なのだった。ホン・サンスには、舞台がパリなのに、韓国人しか出てこなくて台詞もほぼ韓国語の『アバンチュールはパリで』という映画もあるのだけど、ここでは、舞台が韓国で英語が母国語の人がほとんど出てこないのに、台詞の多くが英語ということになっている。『三人のアンヌ』もフランス人が出てくるので英語の台詞もあったけど、ここまで英語ばかりではなかった。
ホン・サンスは、ほぼ自分の身の回りの話しか語らない作家だと思われ、多くの作品が、映画関係者、映画を教える教師、映画を学ぶ学生、あるいはその周辺の人物の関係を描いている。だが、この映画の主人公「モリ」は元語学教師で映画とは関係ないようだし、モリといつもつるんでいる「借金まみれ」の男は正体不明だし、モリが「尊敬している女性」もまた、語学教師であるようなので、映画界とはあまり関係がない。カフェのオーナーらしい女性は元女優だというし、その恋人はプロデューサーらしいから、まったく無関係ということではないが。
で、この映画が、英語が母国語でない人たち同士が英語で語り合うという形になっているのは、ホン・サンス自身が、国際的な映画祭の場で経験した感覚がモチーフになっているということなのではないか。つまりこの映画もまた、ごく身近な環境から発想されているのではないか。
●この映画には驚くところがいろいろあるけど、こんなにまでラストが中途半端でもやもやする映画はほかにあまりないのではないか。ゲストハウスのモリさんが滞在している部屋でカフェのオーナーが寝ていて、モリさんが外のテーブルで寝ていることから(そして、直前のモリさんの見た夢から)推測して、おそらく、モリさん、オーナー、プロデューサーの三角関係のなかで何かが起こったことは間違いないのだろう。しかし、この場の二人のなんとも微妙な雰囲気からだけでは、何がどうなったのかさっぱり分からない。でも、何かが起こった雰囲気だけはすごくある。いや、そもそも三角関係以前に、モリさんは、好きな女性に会うために韓国まで来て、しかも二週間の予定で帰ってしまうというのに、場の流れに流されて、オーナーに「恋人になってくれ」とか言ってしまった件の落とし前がついているのかどうかも分からない。なにもはっきりしないまま、そのまま映画は終わってしまう。
(しかし、モリさんとオーナーが「別々に寝ている」ので、何かしらの形で落とし前はついたのだろうと推測することはできるが……)
しかしそれでも、映画がなんとなく終わった感じがするのは、その直前にモリさんが見ていた夢がとても完結性が高いもので、しかしそれが「実は夢でした」とひっくり返されて、なんだよ、夢オチかよ、と思っているともやもや場面がはじまり、えっ、これってどういう意味?と、考えのまとまらないうちにスパッと映画が終わってしまうからだろう。夢では落とし前がついているのに、現実はあやふやでもやもやのまま終わってしまう。あるいは、落とし前がついている感だけがあって、何も落とし前はついていない。