●我々は「社会」のなかに(だけ)生きているのではなく、宇宙のなかに生きているのだということを考えることが重要であるように思われる。別に「宇宙のロマン」のようなことを言いたいのではない。例えば、社会的関係性を考える時、人はしばしば人間的関係としてそれを考える(ホッブスの社会契約論みたいに)。しかし、社会には人間(他者)だけがいるのではなく、様々な物理的なアクターが作動し、作用していることで、「このように」なってのではないか。それは、現代のテクノロジー的な環境から、地球という惑星が元々もっていた条件から、物理法則のようなこの宇宙の基本設定まで含めた、様々なアクターの関係があり、それらが協働して「社会的関係性」をつくっているのだ、ということ。
社会もまた宇宙の一部であり、だから現実であり、我々の生きる条件であるが、それならば、例えば「わたしの脳」もまた宇宙の一部であり、同様に現実なのではないか。だから、内向的に引きこもって「わたしの脳(身体)」「わたしの感覚」あるいは「わたしという形式」を問題にすることもまた、別の方向から「宇宙」を、つまり現実を問題にしていることになる。あるいは、社会を問題にする時も、常にその先に(人間や「他者」だけでなく)「宇宙」が想定されている必要があるのではないか。そうではないと絵空事(人間にだけしか通用しない何か)になってしまうのではないか。一般意志が情報技術によって導出可能だと考えられるのも、我々が生きている場が、社会であると同時に宇宙であるからなのではないか。社会は人間たち(だけ)がつくっているのではなく宇宙がつくっている、はず。
「宇宙」と言うととてつもなくトンデモ臭が漂うが、「世界」というと「セカイ」と区別が付きにくくなるし、人文的思考に限定されてしまう感じになるのであえて宇宙と言う。宇宙とはここでは、科学の対象であり、同時に科学によってでは包摂できない部分まで含んだ、我々を出現(存在)させ、感覚させ、行動させているこの世界の条件、くらいの感じを意味するものとして使っている(宇宙は、一人称と三人称とを共に含むはず)。
そして、文芸を含めた芸術とは、社会に対してあるのではなく、(社会もまたその一部である)宇宙に対してあると、考えた方がいいのではないだろうか。そう考えれば、例えば「社会的転回」移行の美術の「狭苦しさ」からも抜けられる。
で、『宇宙を書き換える芸術』というタイトルの評論集を書けないだろうか、と思いついた。胡散臭すぎるだろうか。
(これは、直接「宇宙を書き換える」という内容をもつ作品――ハードSFなど――を分析するという意味ではなく、「つくる」「書く」という行為そのものが「宇宙を書き換える」という行為であろうとしている作品について、そのための技法について、考えるということ。)
ここで、誰が宇宙を「書き換え」ようとしているのかが問題となる。さしあたり書き換えようとする主体であるはずの「わたし」は、書き換えられるべき対象であるはずの「この宇宙の物理」「このわたしの脳(身体)」に含まれて(条件づけられて)しまっている。
しかし、この宇宙の物理に支配された、この宇宙の物理の一部である人間が、この宇宙の物理の幾分かを知ることができている (つまり、科学が成立している) という事実があり、それは言い換えれば、「この宇宙」が「この宇宙」自身を自己観照しているということで、それが可能ならば、「この宇宙」が「この宇宙」自身を書き換えようとしている働きがあると考えることも可能で、その働きが人間において現れることもあり得ると、考えることもできる。
だがここで、芸術などによって、科学(物理)以外のやり方で「宇宙を書き換える」ことが可能だと想定しようとするのなら、物理的一元論ではない世界観を採用しなければならなくなる。